古都京都の文化財(日本) 銀閣(東山)

屋根のてっぺんには、鳳凰が今もにらみを利かせている。日が当たって屋根から蒸気がたってきたのが、またいい。

 

4畳半の間取りの起源

特別拝観の時間になった。10人ほどで中に入る。まず「方丈」。本堂に当たり、義政の位牌が祀られているという。撮影や録音は禁止だった。

外から見た方丈

方丈には、池大雅、与謝野蕪村の水墨画の襖(ふすま)絵がある。ただ、置いてあるのは正確な複製画という。蕪村の「棕櫚(しゅろ)に叭叭鳥(ははちょう)図」は、ムクドリとされる叭叭鳥8羽がふすまを飛び回っている。大雅の「琴棋書画図」は人物画。落ち着いた空間だ。

廊下を先に進み「東求堂(とうぐどう)」に入る。元々は12の建物があったが、1550年に三好長慶と15代将軍足利義昭との戦いの影響で銀閣と東求堂を残して焼失した。

外から見た東求堂

義政の持仏堂として1486年に造られたという。義政の等身大の木造座像が安置されている。天井は書院造で使われる折り上げ小組格天井というそうで、木を組んである。

奥の書院に行く。「同仁斎」と名前がついていた。初期の書院造で、畳4畳半の広さ。今の家屋に4畳半の部屋が普通にあるが、半端な「半」ができたのは、この義政の書院が原形なのだという。

義政の愛用した品も残っており「書院飾り」として、墨、すずり、筆、巻物、印材などが、決まった置き方をされている。段が互い違いの「違棚」には茶道具が置かれていた。

離れのような「弄清亭(ろうせいてい)」は香を楽しんだところという。襖絵はそれまで見たのとは違って、昭和に活躍した日本画家奥田元宋(1912~2003年)の作品。四季を表す桜やもみじが色鮮やかに描かれていた。

プリンのような向月台の作り方

小1時間だっただろうか、拝観を終えて外に出た。さあ、庭を見よう。修学旅行で来たときに一番印象に残っているのは、白砂に線が描かれた庭とプリンのようなもの。

「銀沙灘(ぎんしゃだん)」というのが白砂の庭、プリンのような形のものは砂を固めてつくった「向月台」という。

先ほどの特別拝観の時に庭について教えてくれた。「銀沙灘は中国の西湖をまねたものです」という。走っている筋は水面の波ということか。使っている砂は江戸時代のものだという。白砂には、反射で向かいにある方丈など建物に明かりを入れる役目もあったそうだ。

向月台は、富士山をイメージしたとか、上に座って月を見たといわれているそうだ。「砂をたたいて固めるので、5,6人乗っても壊れない。雨も大丈夫」というから、見た目より頑丈だ。土をたたいて固めて作る大相撲の土俵と似ていると思ったが、丸みをつけるのはかなりの技術なのだろう。

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