石見銀山遺跡と文化的景観(日本)

大田市~石見銀山世界遺産センター~大久保間歩~銀山地区~大森地区

16、17世紀の大航海時代、銀を求めてスペインやポルトガルの船団が海を渡り、メキシコの世界遺産サカテカスでは植民地として銀を掘り出していた。2007年にサカテカスに行ったときに、日本の銀の話を聞いた。
ちょうど、石見銀山が世界遺産に登録された。気になっていたので2010年、行ってみた。
事前に参加者限定で「大久保間歩」という最大級の銀採掘の坑道に入ることができるツアーをネットで申し込んでおいた。レンタカーで島根・大田市街から石見銀山世界遺産センターへ。ツアーはここから出発する。
各種資料がそろい、当時の石見銀山や周辺施設を再現したジオラマなどもあるので、出発時間まで時間をもてあますことはない。

江戸時代に世界に知られた「サーマ銀」

簡単にいうと、江戸時代初期に当時世界の3分の1を生産していた日本の銀のうち、最大の鉱山が石見で、当時の名称佐摩銀山から「サーマ銀」と呼ばれて欧州にも名を知られていた。
江戸幕府の直轄地で、主たる鉱山である仙ノ山を山ごと囲んで「柵内」と呼ばれ、それを取り巻く街や城、街道、積み出し港などをまとめて世界遺産に登録されている。
「間歩」というのは坑道で、ありの巣のように張り巡らされ、500本ぐらい見つかっているが総延長は不明という。生産量の低下で、明治時代にはほぼ役割を終えた。

大久保間歩は、徳川家康に任命された初代石見銀山奉行大久保長安の名前がついている。
センターからマイクロバスで山の途中まで行き、そこから徒歩で30分ほど山を登る。間歩入り口前に小さな小屋があり、長靴とヘルメット姿に着替え、懐中電灯を渡される。

間歩にはいると、足元には水たまりもあって滑りやすい。大久保長安が槍を持ったまま馬で入ったというが、今は崩落防止の支柱などがあるのでそう大きな坑道という感じはしなかった。
進むと、次第にガイドとツアー客全員の明かりを頼りに歩くようになる。

全員の懐中電灯を消し、真っ暗の中でガイドが当時の明かりを再現してくれた。さざえのような貝殻に油と灯心をいれて点す。かなり暗い。よく銀鉱石をみつけたものだと感心する。

劣悪環境で太く短く生きた鉱夫

石見では坑道内の出水や崩落の危険、よどんだ空気、高温多湿の環境、精錬による鉛中毒などかなり劣悪だったようで、収入はよかったとはいえ、平均寿命は30歳ぐらいだったという。
太く短く生きた鉱夫たちの証は、坑道壁に残るノミの跡。今削っても銀の含有はほとんどない。ノミを持っていっても無駄なので見るだけにしよう。約900メートルの坑道を見学しながら往復して約1時間ほどだった。

下山途中には、運び出した銀を精錬した作業場の後や、ほかの間歩の入り口、露天掘りだった釜屋間歩などがある。柵内と呼ばれる地域にはこうした遺跡が点在している。

エコを実践した銀山

坑道や精錬の燃料などとして木をたくさん使うが、切ったところに植樹をして再生させた。世界の銀山は山を崩し、木を切り尽くして閉山というのが多かったそうだが、石見はエコを実践した銀山だったという。

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