明治日本の産業革命遺産群(日本) 橋野鉄鉱山・韮山反射炉(釜石・韮山エリア)
盛岡~釜石道~橋野高炉跡、東京~伊豆市~韮山反射炉
明治時代の産業革命遺産群の中で「鉄」に関わるものが多い。当時(今もそうだが)、鉄を持つこと、しかも大量に生産することが、欧米列強に対抗する大きな手段だったのだろう。
岩手県釜石市は言わずと知れた「鉄の街」。「ラグビーの街」でもあるが、それは釜石に製鉄業があったからこそ生まれた。
釜石市内に、明治時代の産業革命を成し遂げるために重要だった遺跡がある。世界遺産登録直後の2015年、行ってみた。
今に残る日本最古の高炉
盛岡駅でレンタカーを借り、東北自動車道花巻JCTから釜石道に入り、遠野ICで下りて、釜石市の西側の山中にある「橋野鉄鉱山」へ。2時間ほどかかった。
駐車場から橋野鉄鉱山インフォメーションセンターに立ち寄る。ガイドツアーもあるが予約が必要だった。10分ちょっとのビデオを見てから、詳しく案内されたパンフレットをもらって出た。
世界遺産には「橋野鉄鉱山採掘場跡」「運搬路跡」「橋野高炉場跡」と大きく3つのエリアが登録されている。採掘場跡、運搬路跡は通常は入れないので、見られるのは「橋野高炉跡」。同センターから歩いて川を渡ると広場のようなところに出る。説明板が立っているのでわかりやすいが、大門、長屋など書いてある遺構はほとんど残っていない。広場は緩やかな斜面になっており、真ん中にある水路に沿って登っていく。
奥まで行って折り返し、下りながら見ていくことにした。「一番高炉」が一番奥にある。1860年ごろに造られたものだという。
すぐ下には「二番高炉」の跡がある。こちらも同時期に造られた。ともに、石組みが残っているだけで、どんな「高炉」だったのか、判然としない。
高炉完成までの話をビデオやパンフレットから簡単に。幕末、長崎で学び、水戸藩の反射炉づくり、大砲づくりにかかわった盛岡藩士、大島高任が大砲をつくるには良質な「銑鉄(せんてつ)」が必要と考え、盛岡藩大橋に独自に設計して鉄鉱石を製錬して銑鉄をつくる高炉を建設、製造に成功した。
これを基に1858年、橋野に洋式の仮高炉をつくり、当時国内有数だった橋野鉄鉱山の鉄鉱石を運び込み、良質の銑鉄をつくりだした。そこで一、二番高炉を造り、水戸藩への供給のため本格的な操業を開始した。
現存する最古の高炉だという。石組みしかないのでどんな構造か分からないが、インフォメーションセンターに説明板があった。
詳細は他に譲るが、鉄鉱石から不純物をある程度取り除き、粉砕して高炉にいれ、薪や木炭などの燃料をフイゴで高温にして砕いた鉄鉱石を溶かして取り出したものを銑鉄と呼ぶ。
貨幣密造発覚で廃炉へ
ところが、せっかく操業に入ったころ、江戸幕府大老井伊直弼の「安政の大獄」(1858~59年)によって水戸藩主徳川斉昭が謹慎となり、反射炉も閉鎖された。
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