明治日本の産業革命遺産群(日本) 橋野鉄鉱山・韮山反射炉(釜石・韮山エリア)
水戸への銑鉄供給ができなくなり、1859年に高炉は南部藩所有となる。このころ、最初にできた仮高炉を改修して「三番高炉」として稼働した。
高炉跡としては、三番高炉の修復具合が一番よさそうだ。5.4㍍四方に石段を積み、四隅に縦長の花崗岩を立てている。元々は高さ7㍍ほどの高炉だったという。
明治に入って民間経営になり、貨幣を造る銭座も設けられた。約1000人が働き、年間約930㌧の銑鉄を造る最盛期を迎えた。広場には従業員への賃金を支払った「御日払所」の跡がある。
また危険もつきものだったようで「山神碑」や、牛馬を運搬に使ったためだろうか「牛馬観世音碑」なども立っている。
1869年(明治2年)に明治新政府による鋳銭禁止令がでたが、橋野では鋳造を続けた。いわば「密造」なのだが、1871年に発覚し、銭座が廃止され、一、二番高炉は廃炉となった。1894年に残っていた三番高炉も操業を止め、橋野鉱山での鉄鉱石の採掘のみが残ったという。
それでも、産業革命黎明期に日本人の手でつくられた功績は大きい。釜石がその後も鉄の町として栄え、ラグビー「北の鉄人」を生み出す基になったともいえるだろう。
ナポレオンが広めた反射炉とは
幕末、ペリー来航から欧米列強への脅威にさらされた日本では、対抗するための武器、大砲などの国内生産することが急務になっていた。
その大砲など鋳造するために、溶解炉が必要だったことから、伊豆・韮山に「反射炉」がつくられた。東京からのバスツアーで2016年、行ってみた。
伊豆半島を南下する途中にあるので、何度か目の前を通って、そびえている反射炉を車窓から見たことは何度かあったが、実際に間近で見るのは初めてだった。
見上げると結構大きい。格子のようになっているのは耐震のためにあとでつけられた。
徳川幕府の命で建造を始めたのは、蘭学を学んでいた代官の江川太郎左衛門英龍。ペリーが伊豆・下田に来た翌1854年から建設が始まった。
1855年に江川英龍は完成を見ずに病気で亡くなったが、息子の英敏が引き継ぎ、1857年に完成した。同じころに、反射炉に入れる銑鉄をつくる橋野高炉もできている。
「反射炉を世界でだれが最初につくったかは定かではありませんが、ナポレオンが利用して大砲をたくさん作ったことで広まった」とボランティア解説員。
反射炉の詳細は他に譲るが、簡単にいうと、焚口に入れた石炭や木材などの燃料で発生させた熱を、炉内の天井や壁に反射させて高温を生み出し、その熱を鋳口に入れた銑鉄に集中して溶かし、流れ出た純度の高い鉄を鋳型に入れて大砲などをつくる。
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