
コルドバ歴史地区(スペイン)
1236年、キリスト教徒によるレコンキスタにより、コルドバはイスラム教徒の手から離れる。メスキータを見たキリスト教徒はその建築の見事さに、まったく手をつけずに、全体の建築はそのままで大聖堂として使用していた。
取り壊し命令を匠の技が救った
16世紀に入って、ハプスブルグ家の司教が赴任。モスクをそのまま利用している市民に対して、取り壊して大聖堂を建設するように命令した。
市民は猛反対したが、司教はレコンキスタを完成させたイサベル、フェルナンドのカトリック両王の孫、カルロス1世の承諾を得てしまった。この司教には他宗教の価値を認める精神がなかったようだ。もっとも、このころはキリスト教の宣教師らは世界各地で異なる宗教や信仰を排除して、キリスト教を強制していた。
大聖堂建設を任されたエルナン・ルイス親子は「守るべき芸術」として、メスキータを最大限取り壊さずに残し、司教を満足させるため、中央部分のみ改築して大聖堂にした。「反抗」した建築家には価値がわかったらしい。

1016本あった柱は最終的に864本に減ったが、そのおかげでメスキータ本来の姿を多くとどめた。モスクと大聖堂が合体した、世界でも唯一といっていい建造物が誕生した。

メスキータの中央部分には、キリスト教の聖堂にある中央礼拝堂、翼廊、中央内陣が配置され、屋根には天蓋(ドーム)が作られた。残されたミヒラーブの横にも小さな礼拝堂がつくられている。

大聖堂天蓋の装飾
スペイン王の後悔
改築後、初めてメスキータを見たカルロス1世は「私は大変なことした。いくらでもつくれるもののために、世界にたった1つしかない貴重なものを壊してしまった」と、後悔したという。
ただ、大聖堂もかなりの芸術性がある建築であることは確か。暗くなった以外はメスキータ本来の雰囲気を損なわずにつくられているので、初めて見た人は違和感なく受け入れられ、そうした「歴史」に気づかないかもしれない。

イスラム教、キリスト教が戦いの中にあっても、キリスト教の高位にあるはずのここに来た司教以外は、お互いの宗教、文化、芸術を認め合ったおかげで、いまも人々を魅了する建物が生き残った。
トルコでは逆にキリスト教の大聖堂をそのままモスクに転用したアヤソフィアがあり、キリスト教の宗教画も破壊せず漆喰で塗り込めただけで残した。
宗教が違っても人間としての価値観は同じだった人が多かったのだろう。当時のイスラム教徒、キリスト教徒が、現代の所業を知ったらどう思うのだろうか。
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