コルドバ歴史地区(スペイン)

床下にある教会の跡

その後、アブデラマン2世が848年に増築(オレンジ色)。現在の中央部分になっている。961年にはアルハケム2世がさらに奥へと拡張した(濃オレンジ色)。


987年にはアルマンゾールによってそれまでのメスキータの東側全部に新たに増築を行い(赤色)、今のような正方形に近い形になっている。


天井を支えるために、柱のアーチは赤いレンガと白い石灰岩をくさび状にして交互に合わせて作られていた。しかし、最後の増築の際には「材料は白い石灰岩だけで、赤いストライプは色を塗ってコストを下げたようです」とガイドのいうように、造作が少し雑になって、アーチの赤色がはげてきている部分もある。

一番奥、南東側の壁面にはメッカの方角を示すミヒラーブがつくられている。壁にくぼみを作っているのだが、その周りの装飾は金色や青色を使った精緻な模様が描かれている。
「砂漠の民だったので水の青や木の緑はあこがれの色だったと言われています」(ガイド)と、とっておきの装飾にした。最終的には2万5000人収容の大モスクになった。

モスクだったことがわかるミヒラーブ

1236年、キリスト教徒によるレコンキスタにより、コルドバはイスラム教徒の手から離れる。メスキータを見たキリスト教徒はその建築の見事さに、まったく手をつけずに、全体の建築はそのままで大聖堂として使用していた。

取り壊し命令を匠の技が救った

16世紀に入って、ハプスブルグ家の司教が赴任。モスクをそのまま利用している市民に対して、取り壊して大聖堂を建設するように命令した。
市民は猛反対したが、司教はレコンキスタを完成させたイサベル、フェルナンドのカトリック両王の孫、カルロス1世の承諾を得てしまった。この司教には他宗教の価値を認める精神がなかったようだ。もっとも、このころはキリスト教の宣教師らは世界各地で異なる宗教や信仰を排除して、キリスト教を強制していた。
大聖堂建設を任されたエルナン・ルイス親子は「守るべき芸術」として、メスキータを最大限取り壊さずに残し、司教を満足させるため、中央部分のみ改築して大聖堂にした。「反抗」した建築家には価値がわかったらしい。

1016本あった柱は最終的に864本に減ったが、そのおかげでメスキータ本来の姿を多くとどめた。モスクと大聖堂が合体した、世界でも唯一といっていい建造物が誕生した。


メスキータの中央部分には、キリスト教の聖堂にある中央礼拝堂、翼廊、中央内陣が配置され、屋根には天蓋(ドーム)が作られた。残されたミヒラーブの横にも小さな礼拝堂がつくられている。

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