富岡製糸場と絹産業遺産群(日本)


教科書では「女工哀史」や「あゝ野麦峠」など、製糸・紡績工場などで働く女性の過酷な労働のことを習った覚えがある。
さすがに官製模範工場、ここで働く工女は勤務時間や休日も決められていて、休日には街に繰り出していたともいう。明治時代のものではないが、街中には「工女さんが○○を食べた、買った」などという店が点在している。悲惨な歴史はこの工場ではなかったらしい。


ただ、パンフレットによると最初に工女を募集した際にはフランス人の飲む赤ワインを血と間違えて「生き血を吸われる」というデマが流れ、工女集めが遅れたという。
技術を学んだ工女は地元に帰って技術者として迎えられたというから、エリート養成所でもあったようだ。

繰糸場出入口

繰糸場の前には診療所の建物がある。残っているのは3代目で1940年(昭15)に建てられたもの。

診療所

隣には1873年(明6)築の「ブリュナ館」。これは最初に指導者として招かれたフランス人、ポール・ブリュナと家族が暮らしていた建物で、回廊式のベランダがある瀟洒な建物。一家が帰国後は夜学校にもなっていたという。
工場内には寮や学校、診療所などもあって、福利厚生もしっかりしていたようだ。

 

ブリュナ館

ブリュナ館を回り込むと、大きな広場にでる。運動会ぐらいは出来そうだ。広場に面して、工女たちの寄宿舎だった建物が並んでいる。一部は大雪で倒壊していたが、なんとも広々とした空間に工場がつくられている。

寄宿舎

1893年(明26)に三井に払い下げられ、原合名会社を経て、1938年(昭13)に片倉工業に移る。地元では工場を「カタクラさん」と呼んで親しまれていたという。
1987年(昭62)に操業を停止したが、片倉工業では保存に尽力し、そのおかげで当時の建物や機械なども残り、世界遺産に登録につながった。

蚕の卵が海外でバカ売れ

世界遺産に登録されたのは4つの建物群。富岡製糸場のほかは、2つの養蚕に関わる建物と、卵の貯蔵施設。せっかく車で来たので、建物2つは見て回ることにした。まずは埼玉県伊勢崎市にある「田島弥平旧宅」に行った。


利根川の堤防にある駐車場に止め、境島小学校にある田島弥平旧宅案内所にまず寄った。解説員が丁寧に解説してくれる。

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