富岡製糸場と絹産業遺産群(日本)

検査人館

その隣に女工館は、日本人に機械製糸の技術を教えるために来た同じくフランス人の女性教師の住居として建てられた。こちらは木造2階建てでベランダがあり、天井は格子状に板が組まれる独特の建築様式になっている。
教師が帰国後は日本の工女の宿舎としても使われていたという。検査人館と女工館の間を繋ぐ建物は後で造られたそうだ。ちなみに工場で働く女性をパンフレットやガイドでは「工女」と呼ぶようだが、建物の名前は「女工」だった。

女工館

「女工哀史」とは無縁の健全工場

「繰糸場」の看板がかかった建物に着く。繭から生糸を取る作業が行われた、この工場の中枢だ。国宝に指定されている。
細長い建物で、中に入ると印象的なのは、天井が高く、窓が大きいので非常に明るい。梁と斜めに渡された柱など「トラス組み」という天井もきれいだ。


室内の左右にはビニールの覆いがかぶせられた機械がズラッと並ぶ。昭和40年代以降に設置された自動繰糸機がそのままの状態で保存されている。操業当時はここにフランス式繰糸器300台(釜)が置かれていた。
釜で繭を茹でながら工女が繭にある糸口をみつけてほぐしながら1本の繭糸を取り出し、何本かをより合わせていくという作業をすると紹介されていた。


教科書では「女工哀史」や「あゝ野麦峠」など、製糸・紡績工場などで働く女性の過酷な労働のことを習った覚えがある。
さすがに官製模範工場、ここで働く工女は勤務時間や休日も決められていて、休日には街に繰り出していたともいう。明治時代のものではないが、街中には「工女さんが○○を食べた、買った」などという店が点在している。悲惨な歴史はこの工場ではなかったらしい。


ただ、パンフレットによると最初に工女を募集した際にはフランス人の飲む赤ワインを血と間違えて「生き血を吸われる」というデマが流れ、工女集めが遅れたという。
技術を学んだ工女は地元に帰って技術者として迎えられたというから、エリート養成所でもあったようだ。

繰糸場出入口

繰糸場の前には診療所の建物がある。残っているのは3代目で1940年(昭15)に建てられたもの。

診療所

隣には1873年(明6)築の「ブリュナ館」。これは最初に指導者として招かれたフランス人、ポール・ブリュナと家族が暮らしていた建物で、回廊式のベランダがある瀟洒な建物。一家が帰国後は夜学校にもなっていたという。
工場内には寮や学校、診療所などもあって、福利厚生もしっかりしていたようだ。

 

ブリュナ館

ブリュナ館を回り込むと、大きな広場にでる。運動会ぐらいは出来そうだ。広場に面して、工女たちの寄宿舎だった建物が並んでいる。一部は大雪で倒壊していたが、なんとも広々とした空間に工場がつくられている。

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