富岡製糸場と絹産業遺産群(日本)
レンガの積み方にも工夫がされている。「木骨レンガ造り」という手法で、木で骨組みをつくってからレンガを積んでいく。積み方も、レンガを縦と横に交互に積むこと強度を高めている。目地の漆喰には地元の石灰を使用。レンガの土も含めて、地元で調達する地産地消、これもエコ。140年経ってもきれいなままで、日本の職人技はここにも生きている。
行った時は修復工事中だったが、2020年秋には一般公開される予定という。
「富国強兵・殖産興業」の象徴
明治新政府となって間もないころ。日本にとっては世界に追いつく国力をつけるために「絹」は重要な輸出品。世界も日本の絹をほしがったが、品質の悪い絹も出回ったという。
明治新政府のスローガンはいち早く海外列強に追いつくための「富国強兵・殖産興業」。海外での評価を落とさないために「模範工場」として作られたのが、この富岡製糸場になる。
工場造りも「模範」となるように地元でほとんどを解決していった。西置繭所からUターンして、東置繭所をくぐり、右手に進む。工場としてはメーンとなる「繰糸場」に向かった。
途中左手には、「検査人館」「女工館」と、洋館が並ぶ。ともに1873年(明6)に建てられた。この製糸場は、建築家のブリュナをはじめ、フランス人の技術者10人ほどが工場の設計から施工、機械製糸などの指導に当たった。
検査人は、その通り、生産された生糸の質を検査する人で、これもフランス人が行った。木骨レンガ造りで、彼らの宿舎に使われた。
その隣に女工館は、日本人に機械製糸の技術を教えるために来た同じくフランス人の女性教師の住居として建てられた。こちらは木造2階建てでベランダがあり、天井は格子状に板が組まれる独特の建築様式になっている。
教師が帰国後は日本の工女の宿舎としても使われていたという。検査人館と女工館の間を繋ぐ建物は後で造られたそうだ。ちなみに工場で働く女性をパンフレットやガイドでは「工女」と呼ぶようだが、建物の名前は「女工」だった。
「女工哀史」とは無縁の健全工場
「繰糸場」の看板がかかった建物に着く。繭から生糸を取る作業が行われた、この工場の中枢だ。国宝に指定されている。
細長い建物で、中に入ると印象的なのは、天井が高く、窓が大きいので非常に明るい。梁と斜めに渡された柱など「トラス組み」という天井もきれいだ。
室内の左右にはビニールの覆いがかぶせられた機械がズラッと並ぶ。昭和40年代以降に設置された自動繰糸機がそのままの状態で保存されている。操業当時はここにフランス式繰糸器300台(釜)が置かれていた。
釜で繭を茹でながら工女が繭にある糸口をみつけてほぐしながら1本の繭糸を取り出し、何本かをより合わせていくという作業をすると紹介されていた。
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