明治日本の産業革命遺産群(日本) 軍艦島・三菱重工長崎造船所関連施設(長崎エリア)
総合事務所の右には、第二竪坑に下りていく桟橋。ここから鉱員はエレベーターで地下に下りて行った。「エレベーターのスピードは通常の8倍、1秒で8㍍のスピードだった」とガイド。それだけでも酔いそうだ。
坑道は最終的には地下1100㍍近くまで達し、温度30度、湿度95%という悪条件の中での作業だったという。
第3見学広場へ向かう。建物はほとんどが大きく崩れている。護岸堤防の上部と思われる残がいもある。
人が壊した訳ではないのに40年ぐらいでこうなるのだろうか。「台風などの風や波によって壊された」(ガイド)と、雨や潮風にさらされ、弱ったところを台風などの暴風や高波で少しずつ壊れていったのだろう。
人が住んでいないと家は荒れるというが、ここを見ればわかる。海洋建築物の風化を研究する場にもなっているという。
「日本初」が多い最先端の街
第3見学広場。目の前が広くなっているが、かつては倉庫などがあった。その先に大きなアパートがまだ立っている。
「30号アパート」で、1916年(大正5)に建てられた、日本最古の鉄筋コンクリート7階建て。行った時がちょうど築100年だった。
隣の海に面した「31号アパート」とともに、窓ガラスなどはなくなっているが、しっかりした骨組みだけが残っている。海側のアパートは防風の役割もあって、島の形に合わせて曲がっている。海側は廊下だったという。
こうしたアパートには、緑がない島で花や野菜を育てる「屋上庭園」がつくられていたそう。これも日本で初めての試みだったという。
飲み水は当初は海水を蒸留しており、のちに給水船で運んで高台の貯水槽にためていたが、1957年(昭和32)には対岸の長崎半島の三和町から日本で初めて海底送水管を敷設した。
この島には「日本初」というのがたくさんある。
広場の海側には「プール跡」があり「海水のプールでした」(ガイド)という。島の反対側、小中学校にはグラウンドのほかテニスコートもあって、スポーツも楽しめたようだ。
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