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明治日本の産業革命遺産群(日本) 軍艦島・三菱重工長崎造船所関連施設(長崎エリア)

長崎港を出て30分強、船は躊躇なく、島に近づいていくので大丈夫だろうと安心した。軍艦島の横を通ると、島にある建物が大きく見えてくる。映像や写真では見てきたが、立派な街がそこにあったようだ。


無事に、軍艦島のドルフィン桟橋に着岸。運がよかったといえるのだろう。

埋め立てて造られた軍艦の姿

パンフレットから軍艦島について簡単な予習を。元々南北約320㍍、東西約120㍍の岩礁島だった端島は、江戸時代に漁師が石炭を見つけたそうで、1869年(明治2)に本格的な採炭が始まり、1886年(明治18)に第一竪坑が完成した。
1890年(明治22)に三菱合資会社の所有となり、本格的な海底炭田の開発が行われるとともに、端島の周囲が埋め立てられ、南北480㍍、東西160㍍の細長い半人工島になった。
その形が、当時最新鋭の戦艦だった「土佐」に似ていることから「軍艦島」と呼ばれるようになったという。上陸見学後、島を一周した際に洋上から「ここから見ると土佐に似ています」というところから見ると、「土佐」は知らないが確かに軍艦だと思う。

洋上から見た「戦艦土佐」に似た姿

最盛期には人口5300人を抱える過密都市(島)で、家族で暮らす人も多かったので、高層の団地や商店、小中学校に病院、飲食街や映画館(昭和館)、お寺や神社などもあった。交番もあり、留置場はまだ壊れずに残っているという。
1974年(昭和49)に閉山。無人島になった。
上陸してすぐに、そうした建物などが島の上に密集していることがわかる。
島を自由に見学できるわけではなく、決められた見学ルートをガイドとともに歩いていく。パンフレットのマップが役に立つ。

無人になって40年、廃墟の中に往時をしのぶ

第1見学広場。正面が広場のように広くなっている。ここが「貯炭場」で、石炭置き場だったところ。廃墟のような光景の中に、ベルトコンベアーの支柱が整然と並んで立っている。ローマ遺跡の神殿の柱のようだ。

第1見学広場から見る貯炭場

貯炭場の左手の岩山の家に大きなアパートが建っている。「高級鉱員3号アパート」で、島内にはこうしたアパートが所狭しと立っている。高級鉱員というから、肩書などによって住むアパートが違っていたのだろう。


貯炭場の先に少し白っぽい建物がある。小中学校だった。

端島小中学校

第2見学広場。採炭にかかわる施設が続いている。壊れた赤いレンガ造りの建物は総合事務所で、ここには共同風呂もあり、仕事を終えて上がってきた鉱員が汚れを落とした。体中、石炭の粉で真っ黒だったという。

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