古代都市テーベと墓地遺跡(エジプト)

死者の街の雰囲気は

翌日は「死者の街」へ。まず立ち寄ったのが「メムノンの巨像」。死者の街の門番のように建っている。
顔の大部分は壊れ、全体にもひびが入った2体の座像。高さ20㍍ぐらい。トロイ戦争でギリシャに敗れたメムノン王の名をとったという。
元々はアメンホテプ3世の葬祭殿の前に立っていた同王の像。名前が変わっている。葬祭殿はその後の石切り場になってなくなったという。

メムノンの巨像

砂漠の山に近づいていく。そのふもとには、葬祭殿の遺跡が点在している。「ラムセウム」というのはラムセス2世、「メディネト・ハブ」というのはラムセス3世の葬祭殿。

メディネトハブ

見学したメディネト・ハブは、東岸の神殿同様に大きな柱、壁のレリーフなどで作られている。精緻なレリーフが印象的で、壁や天井にはまだ彩色画も残っている。


派手な巨像や彫刻などがなく、寂しげな雰囲気なのは死者の街にあるからか。

レリーフから削り取られた女王

葬祭殿の中で最も規模の大きいのが「ハトシェプスト(Hatshepsut)女王葬祭殿」。入り口から長いトロッコのような車に乗せられた。

ハトシェプスト葬祭殿

1997年、多くの日本人が巻き込まれた銃乱射事件は記憶に残る。そのせいか、銃を持った警備兵の姿が目に付き、自然と体が硬くなる。緩やかな斜面を上がっていくと、葬祭殿にたどり着く。


古代エジプトでただ1人の女性ファラオで、夫トトメス2世の死後、実子ではないトトメス3世までの間、紀元前1479年~1458年ごろに在位していた。王位をさん奪したという説もあり、男装していたという。


確かに、葬祭殿にある女王像などはファラオ独特の付け髭はあったが、多くの壁画やレリーフはトトメス3世によって削られてしまったそうだ。
壁画の一部には彩色が残り、彫りもしっかりしているものもある。

ただ、葬祭殿自体が壊された形跡もない。多くの石材があるにもかかわらず、持ち去られることもなかったようだ。葬祭殿を守るように背後にそびえる岩山の反対側に「王家の谷」がある。

「ピラミッド」に見守られる王家の谷

荒涼とした砂漠の山の中、谷を遡っていくと王家の谷入口にたどり着く。「あの山の形、何に見えますか」とガイドの問いに、前方のエル・クルン山の頂上部分がちょうどピラミッドの形に見える。
「この場所を墓に選んだのは、ピラミッドに見守られるからだといわれています」と説明した。
新王国時代の約500年間、王と家族、貴族の墓所として、王墓22を含めて64の墓が点在し、まだ発見されていない墓がある可能性が高いという。近くには王妃の墓を中心とした「王妃の谷」というのもある。

王家の谷

真っ先に向かうのはやはりツタンカーメン王の墓。副葬品のほとんどはカイロ博物館に移されているが、王のミイラは眠っている。
1922年、英国人ハワード・カーターが発見した話は有名すぎるので省くとして、ツタンカーメン王については簡単に。新王国第18王朝の父アメンホテプ4世がアメン神からアテン神(太陽神)信仰に改宗、首都をテーベからアマルナに移すなどの改革を行い国内が混乱する中、紀元前1350年ごろ9歳で即位した少年王。
「アテン神の生ける似姿」という意味のトゥトアンクアテン(Tutankhaten、ツタンカーテン)という名前だったが、即位後アメン信仰に戻し、トゥトアンクアメン((Tutankhamen、ツタンカーメン)となった。王妃はアンケセナーメン。
18歳で突然死去し、頭部殴打による暗殺説もあったが、近年ミイラのCT検査で否定された。
やはり人気NO・1で行列ができている。中は写真撮影禁止。ガラスでふたをした石棺に王のミイラが納められた人型棺が入っている。
王家の谷の中で初めて入る墓だったので、周囲の壁にある3000年以上前の彩色画の鮮やかなオレンジ色に「へえ~」と思ったが、意外と小さい玄室という印象だった。

ツタンカーメン王墓入口

王家の谷では、公開されている王墓のうち入場券で好きなものを3つ見られるというので、ラムセス2世、ラムセス3世、トトメス3世の墓を駆け足でみた。
いずれも、ツタンカーメンより規模がずっと大きく、彩色画などの装飾も見事。少し離れたところのトトメス3世の墓は必見で、さまざまな絵が通路から玄室までの壁面、柱に描かれている。ただ、副葬品は盗掘に遭っている。
未盗掘だったツタンカーメン墓の副葬品の価値は途方もない額だという。もっと大規模な他の墓にはどれほどの副葬品が納められていたか、そしてどこにいってしまったのだろうか。

ラムセス3世王墓入口

1979年登録

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