デリーのクトゥブ・ミナールと建物群(インド)


彫刻部分はアラビア文字でコーランが刻まれている。内部には階段が379段(369段とも)あり、かつては登れたが、転落事故があってから登れなくなったというので残念。


地盤沈下ですこし傾いているということだが、見た目にはよくわからなかった。いずれピサの斜塔のようになるのだろうか。

門外にあるイスラム建築の霊廟

クトゥブ・ミナールの横に「アライ・ダルワザ」という立派な門がある。入ったのは城壁の内側なので、外からの訪問者にとっては出口。門の中は広いのだが、閑散としていた。


門をくぐると、城壁部分の外に出る。こちらが訪問客にとっては入口になる。だからだろうか、装飾がきれいだ。


すぐわきに壁面がきれいな彫刻や装飾で飾れてている建物がある。「イマーム・ザミン廟」といい、16世紀のムガール帝国時代の王の廟だ。


奴隷王朝時にヒンドゥー教の建物を再利用して大急ぎで造ったマスジッドなどとは違って、たぶんじっくり造ったのだろう。窓にはめられた格子の模様などがイスラムの技術でかなり精緻だ。


外に出るとアライ・ダルワザの上部にはイスラム建築らしいドームが載っているのがわかる。廟が「門外」にある理由は分からなかった。


城壁の外、クトゥブ・ミナールを右に見て進むと、石造りの街が現れる。今はほとんどが崩れかけていて、屋根もないが、建物が密集していたのはわかる。
「ここが大学だったところです」とガイドがいうが、どこが大学でどういう建物だったのか、イメージもわかないほど壊れてはいる。隣に「アラー・ウッディーン廟」という14世紀の建物も残っている。

壊れた大学などの建物群

きめ細かい彫刻の廟やジャイナ教建築

街の廃墟を通り過ぎると「イルトゥミシュ廟」にでる。


3代目の王で、さすが奴隷王朝と言われるだけに、初代アイバクの後継者で奴隷の軍人だったという。白い大理石の立派な石棺を見ると、当時の奴隷という階級の位置づけがよく分からなくなる。


その背後の赤色砂岩の壁の一角だけ、唐草模様や幾何学模様の精緻な彫刻で縁取られた白い大理石の窓か門のようなものがある。
「ミヒラーブです」とガイド。モスクにある聖地メッカ方角を示すものだが、廟にも造ることがあるらしい。インドに残る廟としてのイスラム建築では最古のものだという。

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