
デリーのクトゥブ・ミナールと建物群(インド)

外に出るとアライ・ダルワザの上部にはイスラム建築らしいドームが載っているのがわかる。廟が「門外」にある理由は分からなかった。
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城壁の外、クトゥブ・ミナールを右に見て進むと、石造りの街が現れる。今はほとんどが崩れかけていて、屋根もないが、建物が密集していたのはわかる。
「ここが大学だったところです」とガイドがいうが、どこが大学でどういう建物だったのか、イメージもわかないほど壊れてはいる。隣に「アラー・ウッディーン廟」という14世紀の建物も残っている。

壊れた大学などの建物群
きめ細かい彫刻の廟やジャイナ教建築
街の廃墟を通り過ぎると「イルトゥミシュ廟」にでる。

3代目の王で、さすが奴隷王朝と言われるだけに、初代アイバクの後継者で奴隷の軍人だったという。白い大理石の立派な石棺を見ると、当時の奴隷という階級の位置づけがよく分からなくなる。

その背後の赤色砂岩の壁の一角だけ、唐草模様や幾何学模様の精緻な彫刻で縁取られた白い大理石の窓か門のようなものがある。
「ミヒラーブです」とガイド。モスクにある聖地メッカ方角を示すものだが、廟にも造ることがあるらしい。インドに残る廟としてのイスラム建築では最古のものだという。

クトゥブ・ミナールの方へ戻る。少し毛色が変わった建物の遺跡が目立つようになる。

「ここはジャイナ教の建築物です」とガイド。ヒンドゥーの彫刻とは違って細かいのが特徴だ。アイバクはすべてを破壊したわけではなさそうだ。

ジャイナ教の詳細は他に譲るが、紀元前6世紀ごろにマハ・ヴィーラを始祖として始まり、インドに根付いた禁欲主義の宗教。カジュラホなど他の宗教遺跡にもきれいな彫刻の建造物などを残している。

門らしい遺跡が残っているが柱や梁にはびっしりと彫刻が施されている。赤色砂岩なので細工はしやすいのだろうが、ヒンドゥーやイスラムの彫刻とは一味違う。

奴隷王朝も、この彫刻のある建物にはあまり手を付けなかったのだろうか。ヒンドゥー教の建物は見ていないが、ジャイナ教建築はけっこう残っている感じがした。

1700年錆びないオーパーツ
さて、いよいよ子供のころから見たかった「鉄柱」へ。ジャイナ教建築の門の前に立っていた。高さ7㍍。クトゥブ・ミナールの72.5㍍を見た後なので高くは感じなかったが、目的のものに出会えた。

鉄柱の記憶が鮮明なのは、たぶん宇宙人や超古代文明といった類の本で読んで、、現代でも作るのが難しい純度99%以上の鉄でできている、と知って驚いたからだ。それが錆びない理由だという。

これはオーパーツと呼ばれる。発見された場所や推定される年代にまったくそぐわない物で「out of place artifacts」を略して「OOPARTS(オーパーツ)」。縄文時代の遺跡から電球が出土したらおかしい、ということだ。

造られたのは4世紀ごろだという。そんな純度の鉄がその時代に造れるはずがないということでオーパーツの仲間に入っている。最初に立てられた場所はここではないかもしれないといわれる。
以前は触ることができたそうだが、今は囲いがされている。よく見ると、錆びも出ている。錆びないはずでは?
手が届かない上の方は錆びていなかったので、たぶん人がさんざん触ったためにいらない成分が付いて錆が出るようになり、立ち入れなくしたのだろうと解釈した。

崩れ落ちそうな未完の塔
最後に「アライ・ミナール」を見た。大きな円柱が建っているのだが、これはクトゥブ・ミナールの約2倍の大きさの塔を作ろうとして途中でやめたのだという。
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