デリーのクトゥブ・ミナールと建物群(インド)
門をくぐると、城壁部分の外に出る。こちらが訪問客にとっては入口になる。だからだろうか、装飾がきれいだ。
すぐわきに壁面がきれいな彫刻や装飾で飾れてている建物がある。「イマーム・ザミン廟」といい、16世紀のムガール帝国時代の王の廟だ。
奴隷王朝時にヒンドゥー教の建物を再利用して大急ぎで造ったマスジッドなどとは違って、たぶんじっくり造ったのだろう。窓にはめられた格子の模様などがイスラムの技術でかなり精緻だ。
外に出るとアライ・ダルワザの上部にはイスラム建築らしいドームが載っているのがわかる。廟が「門外」にある理由は分からなかった。
城壁の外、クトゥブ・ミナールを右に見て進むと、石造りの街が現れる。今はほとんどが崩れかけていて、屋根もないが、建物が密集していたのはわかる。
「ここが大学だったところです」とガイドがいうが、どこが大学でどういう建物だったのか、イメージもわかないほど壊れてはいる。隣に「アラー・ウッディーン廟」という14世紀の建物も残っている。
きめ細かい彫刻の廟やジャイナ教建築
街の廃墟を通り過ぎると「イルトゥミシュ廟」にでる。
3代目の王で、さすが奴隷王朝と言われるだけに、初代アイバクの後継者で奴隷の軍人だったという。白い大理石の立派な石棺を見ると、当時の奴隷という階級の位置づけがよく分からなくなる。
その背後の赤色砂岩の壁の一角だけ、唐草模様や幾何学模様の精緻な彫刻で縁取られた白い大理石の窓か門のようなものがある。
「ミヒラーブです」とガイド。モスクにある聖地メッカ方角を示すものだが、廟にも造ることがあるらしい。インドに残る廟としてのイスラム建築では最古のものだという。
クトゥブ・ミナールの方へ戻る。少し毛色が変わった建物の遺跡が目立つようになる。
「ここはジャイナ教の建築物です」とガイド。ヒンドゥーの彫刻とは違って細かいのが特徴だ。アイバクはすべてを破壊したわけではなさそうだ。
ジャイナ教の詳細は他に譲るが、紀元前6世紀ごろにマハ・ヴィーラを始祖として始まり、インドに根付いた禁欲主義の宗教。カジュラホなど他の宗教遺跡にもきれいな彫刻の建造物などを残している。
門らしい遺跡が残っているが柱や梁にはびっしりと彫刻が施されている。赤色砂岩なので細工はしやすいのだろうが、ヒンドゥーやイスラムの彫刻とは一味違う。
奴隷王朝も、この彫刻のある建物にはあまり手を付けなかったのだろうか。ヒンドゥー教の建物は見ていないが、ジャイナ教建築はけっこう残っている感じがした。
1700年錆びないオーパーツ
さて、いよいよ子供のころから見たかった「鉄柱」へ。ジャイナ教建築の門の前に立っていた。高さ7㍍。クトゥブ・ミナールの72.5㍍を見た後なので高くは感じなかったが、目的のものに出会えた。
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