ペトラ(ヨルダン)

道幅は5~10㍍ほど。左右の崖の高さは50~60㍍ほどはあるだろうか。ここがインディ父子の駆け抜けた道だ。
岩壁を見ると、地層の筋がみえ、色もさまざまあってきれいだ。主に砂岩で、かつては海の底だった。波が削ったようなところもある。

岩壁には樋のようなものが刻まれている。「ナバティア人の水利システムで、街まで水を引いていた水路です」とガイドが説明した。

岩壁には浮彫の彫刻がたくさん刻まれている。「ナバティア人が信仰していたドゥシャラ神が彫られています」という。多くは風化で薄くなっているが、道のわきに「ドゥシャラ神の祭壇」が残っていた。

ドゥシャラ神の祭壇

ナバティア人はアラブ系の遊牧民で、紀元前6世紀ごろにペトラに定住を始め、アラビア半島からトルコやエジプトへの交易路の中継地として要所に当たったことから、1世紀にかけてペトラの街を発展させたという。
くねくねと曲がりながらほぼ平坦なシークを行く。左右の岩壁や彫刻などを見ていると、あきないで歩ける。風化が進んでいるが、ラクダを引いた交易隊商の彫刻なども残っている。結婚の誓いをする岩などもある。

隊商とラクダの彫刻

「ちょっと道の右側に寄ってください」とガイド。岩壁にまた何か彫刻でもあるのかと思ったら、そのまま岩壁沿いに進む。曲がり角にきて「ここで、左に移りましょう。前をよく見て」。
数歩、左に移動すると、岩の隙間の先、突然視界が開けて巨大な建物の一角が細く見える。ガイドの演出。ペトラの街の象徴、「エル・ハズネ(カズネ)」(El Khazneh)にたどり着いた。

赤く輝くエル・ハズネ

「エル・ハズネ」が目の前にそそり立っている。午前10時ごろ、朝の太陽の光を浴びて赤っぽく染まっている。思わずため息がでる。「インディ~」で見たものと同じものが目の前にある。シーク入口から40分ほどだったが、期待感もあるのでさほど長く感じなかった。

岩壁から削り出したファサード(建物の正面のデザイン)は高さ40㍍、幅28㍍。大きく2層に分かれ、上段の真ん中にはひだ付きの天蓋をのせた円形の霊廟(トロス)があり、女神のような彫刻が施されている。左右には、2つに分かれた破風(はふ)が立っている。


下段にはコリント式の太い柱6本が彫刻された破風を載せている。ヘレニズム文化の影響を受けているというが、ギリシャの神殿のような印象だ。前1世紀~2世紀に造られたというが、正確な年代はわかってない。


「上から彫り始めたといわれています」とガイド。柱や彫刻を削り出すには相当な労力、財力、年月が必要だっただろう。豪華絢爛、といった感じではないが、ファサードに刻まれた彫刻も味がある。

ここがシークを伝ってやってきた街の入口になる。ペトラは交易の隊商に水や食料などを供給して1世紀ごろまで繁栄したという。106年にローマ帝国のトラヤヌス帝が攻めてきて、ローマ帝国の一部になった。
その後隊商路が変わったこともあって徐々に衰退し、6世紀に大地震に見舞われ、その後街が放棄されていったという。
1812年にスイスの探検家ジョン・ルイス・ブルクハルトによって欧州に存在を伝えられるまで、この街は秘密にされてきたともいわれるそうだ。見つけられた時はエル・ハズネの柱が倒れていたりしたという。

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