
昌徳宮(韓国)

逍遥巖
「盃が流れてくる間に詩を作れないと3杯飲まされました」とイッキの罰もあったらしい。岩に刻まれた玉流川の文字は仁祖、詩は粛宗のもの。川のほとりには5つの東屋が建つ。
「清漪亭」は六角形の屋根が藁葺きで浅い池の中に建っていた。「建物の周りは水田になっています」という。田植えはまだだった。

清漪亭
思ったとおり、帰りの上りはけっこうきつい。そしてまた下る。もったいない。「秘苑」の最後に行ったのが「演慶堂」。貴族(両班)の屋敷をモデルにして作ったそうで、門が2つあって男性用と女性用。

屋敷も男女の居住空間が別になっている。1865年頃に建てられ。秘苑内の建物は小さな東屋でも彩色されていたが、ここは貴族の建物を模しているので彩色されていない。当時、彩色できるのは宮殿関係の建物と寺だけだったという。

秘苑だけでも2時間近くかかった。相当広い昌徳宮の中でも、半分ぐらいをこの庭園が占める。日本語ガイドツアーが解散したのは、敦化門のところだった。
元に戻ったので、あらためて今度は昌徳宮を見て歩く。
迷路のような宮殿内
敦化門を入ったところ、ちょうど解散したのが「閣内(内閣?)」という額のある建物の前。ここが政治の中心と思ったが勘違いで「閣内各司」といって、王室を補佐する部門が入っている。

禁川にかかる錦川橋を再び渡ると、宮殿内に入ったことになる。さっと渡ってしまったが、あとから調べたらこの石橋は1411年にかけられた韓国で最も古い石橋なのだという。
前には「進善門」。左手に「玉堂」とあったので入ってみた。このあたりも閣内各司の一帯で「薬房」と名前が付いた内医院など、あまり大きくない建物が並び、迷路のようになっている。
ガイドブックにはそんなに詳細な地図はなかったので、当たりをつけて出たところが進善門の横だった。くぐると左手に「仁政門」が見える。
李氏朝鮮王朝の中心地へ
このあたりが、李氏朝鮮王朝の政治の中心地。門を入ると、また広い広場。テレビドラマでよく出てくるような場所だ。白い石畳に道が付いており、門から基壇の上に建つ2階建ての巨大な「仁政殿」にまっすぐ伸びている。

道の両側には小さな石版が並んでいた。「従五品」「正三品」など、仁政殿に近くなるにしたがって数字が減る。
かつての日本の朝廷にもあった「正一位」とか「従三位」とかいう位と同じく、序列が示され、立つ位置が決まっていた。一応、遠慮して「従三品」で写真を撮った。

ここでは重要な国事を行っていた。1405年に昌徳宮創建時に同時に建てられたが、1592年の壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)で焼失。第15代光海君によって1610年再建、1803年にまた焼失したが翌年再建された。
石段を上がると内部を見られる。彩色された天井は高く、赤い柱が支えている。中央の御座(王の座)がある。もっときらびやかと思ったが、そうでもなかった。柱などについている電灯は、現代風のものだった。

仁政殿内の玉座
昌徳宮について簡単に。1405年に第3代太宗が宮殿「景福宮」の離宮として建てた。だが、王たちは主に昌徳宮に住み、政務を行ったという。
壬辰倭乱で焼失後、景福宮は土地が不吉だとして再建されず、昌徳宮が再建されて1610年完成。景福宮が再建されるまで250年以上も王宮として使われてきた。
日本統治時代に内殿の一部が火事に遭い、景福宮から建物を移築するなどオリジナル性が乏しくなって、第2次大戦後は荒れたままだったが、1991年から復元が進められた。
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