ラパ・ヌイ国立公園(チリ)

ラノ・カウ火山の海よりの頂上には「オロンゴ儀式村」が再現されている。当時の集落の様子が分かる。

板状に石を割ったのだろうか。平たい石を積み上げて造られた、当時の家。中にも入れるが、中は少し掘り下げられていて、天井が低く狭い。風が強い島なので、こうした頑丈な石で低い家が必要だったのだろうか。

ラパ・ヌイのトライアスロン

ラパ・ヌイの代名詞であるモアイは「モアイ倒し戦争」後、17世紀ごろにつくられなくなった。ここはその代わりに、戦争を避けるための儀式が行われたという場所で、火山の斜面が急傾斜で海に落ちており、その沖合いに3つの小島、モツ・カオカオ、モツ・イティ、モツ・ヌイが並んでいる。

モツは小島の意味らしい。18~19世紀に、ここで島の支配者を決める「鳥人儀式」を行った。各部族の代表者が断崖を駆け下り、モツ・ヌイへ泳いで渡り、渡り鳥背黒アジサシが最初に産み落とす卵を持って帰るトライアスロンのようなレース。勝者の部族の族長が1年間、島の統治権を得たという。

鳥人などが、そこかしこの岩に彫られており、儀式の場という雰囲気を漂わせる。断崖の下をのぞいたが、急傾斜でとても下りられるような場所ではない。鳥人となる代表者には相当な勇気が必要だっただろう。

島最大の海岸洞窟「アナ・カイ・タンガタ」では、食人儀式が行われたとされる。ケビン・コスナーが島を舞台に作った映画(作品名はラパ・ヌイ?)のラストシーンにも登場するとか。奥行きがあまりない洞窟の壁には壁画がいくつかあるが「いたずら好き」(ガイド)の島民が書いたものなのだという。

失われたロンゴ・ロンゴ

島を離れる日、マルシェ(市場)に立ち寄った。モアイをつくった先住民が使った文字を「ロンゴロンゴ」(Rongorongo)という。

1722年復活祭(イースター)の日にオランダ提督が島に来て以降、奴隷として連れ去られたり、島外から持ち込まれた天然痘の流行などで1万とも2万ともいわれた島民は、19世紀後半には100人ほどになったという。今は奴隷の子孫らが島に帰ってきて4000人ほどが住んでいる。

キリスト教布教のために来た宣教師がロンゴロンゴで書かれたものを焼却してしまったこともあって、文字を読める人がいなくなり、いまもモアイにつながる島の歴史は分かっていない。当時のキリスト教宣教師には、異文化を認める精神が欠如していた。

ラパ・ヌイ語はわからなかったが、「こんにちわ」「ありがとう」は「イオラナ」「マウルル」。タヒチでは「イアオラナ」「マウルール」だったので、今はポリネシアの言葉と似ているが、モアイが作られていた当時の言葉ではないそうだ。文書が今でもどこかに隠されているという話もあるというが…。

トトラで作った紙にロンゴロンゴが書かれた「絵」を買った。今はデザインとしてしか使い道がなくなった文字が、いつか解読されたら、この絵にはなんと書かれているのだろうか。

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