ラパ・ヌイ国立公園(チリ)

この近くに、アフに立てられたものとしては最も高いモアイが、うつぶせに倒されている。

最初の7人

島に最初に来た7人のモアイとされるのは、西部にある「アフ・アキビ」に立っている。島内のモアイで、海を見ているのはここだけだ。

モアイは自分の村や集落、そこに住む家族をずっと見守っているということらしいので、陸地側を向いている。海を向いているというのは、故郷を向いているということになるのだろうか。だとしたら、西を向いている。

モアイの謎について分かってきていることもある。島の北側にある火山「ラノ・ララク」(Rano Raraku)に行くと、モアイの製造過程をみることができる。

モアイ製造工場へ

モアイの切り出した山で、登山口から緩やかな斜面を上り始めて、最初に「正座するモアイ」と出合う。正座の形に彫られた足、丸顔の顔立ちは日本人か?と想像が広がる。

斜面を進むと、モアイがそこら中に放置されている製造工場に着く。ちゃんと立っているやつ(体は埋まっているが)、前に倒れそうなやつ、寝ているやつ、まだ岩に刻まれているやつ…など、300~400体があるという。

モアイは死者を供養するためにつくられたという説が有力。「すぐにはつくれないので亡くなるのを見込んで生産していたと考えられます」とガイドはいう。

斜面を登りきると、内側はカルデラ湖になっている火口。その内側斜面にも製造途中のモアイがたくさんある。

モアイはすべてこの山の凝灰岩製。比較的軟らかい火山岩で、現在想像されている作り方はまず硬い石で体の前面を彫る。その足下に大きな穴を掘り、背中を切り離してその穴に落とすようにして立てる。最後に体の背中部分を仕上げたという説だ。

作りかけのモアイを見ると、その手順が容易に想像できるほど、さまざまな製造途中のモアイが放置されている。今すぐにでも製作を再開できそうな感じだ。

まげを表しているという、頭に載せるプカオは「プナ・パウ」というところから切り出される赤色凝灰岩を加工している。そこにも、さっきまで作っていたかのように、無造作に作りかけのプカオの残骸が散らばっている。

モアイは歩いた

モアイは10世紀ごろから16世紀ごろまで作られたとされている。最初はアナケナビーチのホツマツア王や正座モアイのように人に近い姿で作られ、次に下半身がなくなって手をおなかに組むタイプとなった。

頭にプカオを載せるようになったのはその後で、最後はよく知っているような顔が大きく強調され、本人に似せたというより、かなりデフォルメした形で、ラノララクに放置されているモアイのような姿になったという。

移動方法にはまだ定説がない。丸太の上に寝かせて注文があったアフまで運ぶというのが一般的で、そのために木を切りすぎて島の土地が荒廃し「モアイ倒し戦争」に発展したとも言われている。

だが「モアイは歩いた」という言い伝えもあり、立てたまま運んだ可能性を探ってこれまでにさまざまな「歩行実験」も行われている。山の斜面から海岸に向けて、モアイを運んだ跡が残る「モアイの道」が、謎に包まれたまま残っている。

モアイの道が伸びている

 

島唯一の村、ハンガロア村のペンションに泊まった。タヒチから往復でパラヌイに行くのは2泊3日。飛行機便の関係らしい。

村のメーンストリートはレンガを敷き詰めた舗装道路だが、周辺の道はもちろん未舗装。風が強く、ほこりが舞い、コンタクトレンズを使っている人は涙を流しながらの日々を覚悟しておいた方がいい。

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