
リマ歴史地区(ペルー)
リマ市街~サン・マルティン広場~サン・フランシスコ教会~アルマス広場・カテドラル・大統領府
新聞社に在職していたころ、このペルーの首都のことが頭から離れなかった時期があった。どんな街なのか、この目でやっと確かめられた。2013年、行ってみた。
1996年12月に起こった「在ペルー日本大使公邸人質事件」をご記憶の方も多いだろう。翌年4月の解決まで4カ月以上を要した。当時新聞社社会部のデスクで、その間、特派した記者や通信社からの膨大な原稿に毎日目を通していた。
ペルー軍が強行突入した4月22日、日本時間23日早朝、仕事が終わって帰宅した直後にまた社にとんぼ返りして号外を作った。そんな縁のある街がペルーの首都リマ(Lima)。「きれいな街です」とは、当時の特派員から聞いていた。
色彩が統一された広場
「夜は治安があまりよくない地域なので出歩かないでください」とガイドに念を押された。ホテルは世界遺産の旧市街(セントロ地区)の中心部にあったが、すぐ近くの路地には街娼が立つ場所柄らしい。
試しに煙草を吸いがてらホテルの外に出てみたが、そう聞かされると、通りの暗さや人の気配が気になってくる。「明るくなってからにしよう」と、ホテルのバーに引き返した。
翌朝、旅先でのいつものホテル周辺の散歩にでた。人通りはほとんどなく、少し大きめの路地を歩くと、建物の壁に落書きのほか、なぜかアートといっていい壁画がたくさんある。

地図をチラチラ確認しながら、10分ほどで「サン・マルティン広場(Plaza San Martin)」に着いた。白壁の瀟洒な建物が広場をぐるりと取り囲んでいる。1821年、アルゼンチンからの独立を宣言したサン・マルティン将軍を讃え、独立100周年の1921年につくられた。

広場の中央にサン・マルティンの像が立っている。周りを囲んでいるのはほとんどが白い建物。「リマのこうした広場を囲む建物は、1つの色に統一されていることが多いです。青や赤もあります」と、あとでガイドに聞いた。ジャガランダという、日本の桜のような花がちょうど咲き始めているところだった。

民家も全部世界遺産
ホテルに戻ってツアーバスに乗り、サン・フランシスコ教会近くで降りた。ここから徒歩で旧市街を見て回る。「サン・フランシスコ教会(Iglesia y Convento de San Francisco)」は2つの塔や神学校などを併設する黄色い建物で構成されている。

「教会には墓地があって、2万5000人ぐらい眠っています」という。できたのは1672年。バロック様式だという。正面の彫刻がきれいに残っている。

教会の周りの民家もきれいな飾り窓を持っている。「この当たり一帯が世界遺産になっています」という。民家もひっくるめての登録。自分の家が世界遺産だったら、と思うと、住みやすいのか、住みにくいのかは分からない。

ここから旧市街の中心「アルマス広場(Plaza de Armas」に向かって歩く。途中に、黄色い壁を持った古そうな建物の前にでた。
「デサンパラードス駅(Desamparados Station)」だった。「150年ぐらい前の鉄道駅で、アンデスに行く鉱山鉄道の拠点でした」という。こちらはスペインの植民地によくあるコロニアル様式の建物だ。今はほとんど使用されておらず「博物館みたいになっている」とガイド。閉まっていたようで、中には入らなかった。

主要な建物が取り囲む広場
アルマス広場に出る。周りをリマの主要な建物が取り囲んでいる。
インカ帝国を滅ぼしたスペインのフランシスコ・ピサロ(Francisco Pizarro)が、植民地支配の拠点として、海に面したこの街を1535年に建設を始めた。元々は先住民の宗教都市で、市内を流れるリマック川が街の名前の由来になったという。
アルマス広場でひときわ目立つのが東側の「カテドラル(La Catedral de Lima)」。街の建設と同じく1535年にピサロが礎石を置いた。
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