タージ・マハル(インド)

宝石で飾られたファサード

「アメジストはペルシャ、サファイアはセイロン(スリランカ)、ヒスイは中国など、各国から宝石を取り寄せはめ込んでいきました」とガイド。よく400年近くも盗まれずに来たものだと感心する。

大理石の表面に直接彫刻してあるのも草花。細かな影をつくって、アクセントをつける。イスラム建築を今まで多数見てきたが、ち密さではほかにも素晴らしいものがあったが、ここまで高価で手の込んだものはなかったように思う。

霊廟の中に入った。金網の柵で囲われているが、隙間からこれも白大理石製の棺(墓石)が見える。

妻の棺に寄りそう皇帝

堂の真ん中に、墓の主、ムムターズ・マハルの棺、その左にタージ・マハルを造らせたムガール帝国第5代皇帝のシャー・ジャハーンの棺が後から置かれた。
「シンメトリー(左右対称)」にこだわった建物だが、自身の棺がタージ・マハルに納められたことで、シンメトリーが崩れてしまったようだ。本人の棺がここに置かれることは想定していなかった。
周りを「レースのような」という形容がぴったりの草花や幾何学模様の透かし彫りを施された本来の柵が囲んでいる。

棺自体も象嵌細工で埋め尽くされている。豪華だがレプリカで、本物の墓は地下にある。棺の撮影は禁止だった。
タージ・マハルはムムターズ・マハルのムムが取れてその名前になった。宮殿で催された模擬市場でガラス玉を「ダイヤです」と売り子役のムムターズに勧められたシャー・ジャハーンが、値切りもせずに買い取ったのが出会いだったという。
見初められてすぐに婚約、結婚し、14人の子をもうけた。15人目のときに産じょく熱で他界、36歳だった。悲しみのあまり、シャー・ジャハーンのひげが真っ白になったという話もある。

ミナレットの立ち方にも工夫が

さて、霊廟内を見てから外側をぐるっと回ってみた。まず4本のミナレット。2本は修理中? 足場が組まれていた。
「毎年、掃除をしてきれいにするためです」という。ミナレットはモスクにあるものだが?「向こうにあるのがモスクです」という。

少しはなれたところに赤い建物が左右に同じ形で配されているが、タージ・マハルの正面から見て左がモスク、右が迎賓館。内部のつくりが少し違うが、外見はまったく同じなのだという。
「ミナレットは建物の配置のバランスをとっています。それと、まっすぐに立っているように見えますが、少し外側を向いています。地震があったときに霊廟の方に倒れないようにするためです」とガイド。確かにインド、特にヒマラヤに近い北部は地震が多い。

まず迎賓館に行った。遠めにはよく分からなかったが、近くに行くとこちらも赤砂岩に白大理石をつかった象嵌や彫刻で埋まっている。

ここは客をもてなしたところだというが、中はがらんとしていた。ただ、内部の壁も天井も、装飾は見事だった。

霊廟の裏に回りこむ。冬とはいえ日差しが強いので、日陰になる裏側には観光客がたくさん涼んでいた。すぐ下をヤムナー河が流れている。風も気持ちがいい。
そのヤムナー河の対岸に小さな赤い建物が立っている。そのあたりはシャー・ジャハーンが黒大理石を使って、タージ・マハルと同じ造りで自らの墓を造る予定地だった。

だが、あまりの巨額になるため、息子の第6代皇帝アウラングゼーブによって帝位を追われ、アーグラー城に幽閉されて、自身の墓を造ることなく亡くなった。
さらに進むとモスクがある。これも迎賓館と同様に、装飾で埋められている。

壁にはメッカの方向を示すミヒラーヴがうがたれ、床には礼拝のためと思われる仕切り模様が描かれている。タージ・マハルが休館の金曜日には礼拝が行われているそうだ。

霊廟にも周囲を回りながら目を向ける。正面だけではなく、全方向から見ることができる。シンメトリーの建物なので、正面は内部への扉が開かれているが、どこから見ても同じ形だ。

ただ、白い大理石は光によってその色を変えるというので、いろいろな角度で見てみるのがいいようだ。ファサード以外にもアーチ状にくぼんだ飾り窓など、どこから見ても均整が取れている。

墓をつくった職人たちの悲劇

モスクを後にしてまた霊廟正面に戻る。基壇を下り、時折振り返りながら庭を戻ってまた中央の池へ。もう一度、タージ・マハルの姿をここから見る。
2時間ほど見て回っていたので、太陽が少し上に来ていた。心なしか、最初に見たときより、くっきりと見えると思ったのは、名物の霧がすっかり取れたからだろうか。

確かに世界一高価な墓なのは間違いないだろう。ただ、その費用は民衆の税金だっただろうし、職人の中には「これ以上の優れた建物をほかでつくらないように手を切り落とされた」(ガイド)という。
タージ・マハルだけではなく、今に残って傑作とされる世界中の豪華な宮殿などは、多くの人が権力者の犠牲になってできたというのをあらためて感じる。こうした世界遺産は、作らせた人ではなく、作った人たちの「遺産」なのだろう。

1983年登録

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