平泉(日本)

中にはいると、文字通り金色堂はまばゆい色に輝いている。

HPなどによると、奥州藤原氏の初代清衡が1124年に建立し、当時東北地方で産出した金を惜しげもなく使って、匠の技術の粋を集めたという。金箔の柱1本にも手を抜かない細工が施されている。

須弥壇に鎮座する仏像も金色。阿弥陀如来を本尊に、両脇に観音勢至菩薩、6体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えて、お堂に収まっている。

基壇部分に藤原氏3代(清衡、基衡、秀衡)の遺体と、頼朝に滅ぼされた4代泰衡の首級が納められ、金色の世界に包まれて死後1000年近くを送っている。

金色堂自体が「墓」のようだ。ツタンカーメン王らエジプトのファラオの墓を連想させられる。「極楽浄土」が金色なのかどうかは分からないが、あまり金色に包まれているとちょっと落ち着かないのは貧乏性なのだろうか。

行った当時は覆堂の近くに、木造の「旧覆堂」があった。1288年に鎌倉幕府によって、風雪から守るために造られたという。金色堂の重要さは、滅ぼした側も分かっていたのだろう。その後も誰もつぶして金にしなかったので、今に残っている。

1980年と1994年の入場券が残っていた。いずれも拝観料500円、ちなみに現在は800円で「浄土」に身を置ける。

のどかな庭園は「浄土」を表す

車で10分ほどのところにあるのが「毛越寺(もうつうじ」。日本有数の庭園が残っているというので行ってみた。

HPによると、元々は慈覚大師円仁が850年に東北を巡っていた時、この場所でうずくまっていた白鹿を見つけ、近寄ったところ老人に姿を変えて寺を建立するように告げ、堂宇を立てた。老人は薬師如来の化身、寺は「嘉祥寺」というのが始まりだという。

2代基衡が建立を始め、3代秀衡が完成させた。多くの伽藍がつくられて、中尊寺をしのいだともいわれるそうだが、奥州藤原氏が頼朝に滅ぼされた後に、建物はすべて失われたという。

入ってみて、ちょっとがっかりするかもしれないのは、その通り、何も残っていない、からだ。「大泉が池」という大きな池があるだけで、日本有数の「浄土庭園」といわれても、はっきりした特長が目につく訳ではない。

一見すると、芝生がある普通の広い公園といった感じに見えたのが第一印象だった。堂宇の跡、礎石などが数多く残っているそうで、学術的には貴重なのだろう。2003年に行ったときには、新しい本堂ができていた。周辺には義経に関係のある遺構などもあるので、時間があればあわせて訪ねてみたい。

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