アーグラー城(インド)

息子に閉じ込められた皇帝

シャー・ジャハーンは、王妃ムムターズ・マハルの墓としてタージ・マハルを造ったことで知られている。タージ・マハルの項で紹介したが、シャー・ジャハーンはアーグラーを流れる大河ヤムナー河をはさんで、タージ・マハルの対岸に黒大理石で同じ設計の自身の墓を建てようとした。
しかし、タージ・マハル建設で「国に財政が傾いた」とされるだけに。もう1つ建てようものなら財政破綻を起こす危険があった。「息子のアウラングゼーブが、阻止するために父親をここに監禁して、自分が皇帝(第6代)になってしまいました。ここに7年間閉じ込められて亡くなりました」とガイドが説明した。

元々、この建物はシャー・ジャハーン帝が王妃らのために造った。ヤムナー河を見下ろす八角形の楼が特徴的だ。息子に監禁されたシャー・ジャハーン帝にとっては、ここからタージ・マハルを見て過ごした時間は苦痛以外の何ものでもなかっただろう。ただ、重税や労働を強いられた民衆や職人にとってはよかったのかもしれない。

ムサンマン・ブルジの横には「ディワニ・カース」という、これも白大理石の建物がある。ここは会議場だったところだ。

広いテラスには、四角い机のようなものが2つ置いてある。「黒大理石の方がジャハンギル、白大理石の方がシャー・ジャハーンの玉座だった」(ガイド)という。ここに座って、政治を行っていた。

居住用ではないためか、装飾はほどほどで、さすがに仕事場だけあって実務的な感じがする。ここからもムサンマン・ブルジ越しにタージ・マハルが遠望できる。

かつては500の建物があった広大な敷地

まだまだ建物が続く。アーグラー城は半月形に約2.5㌔の城壁に囲まれた敷地があり、かつては500もの建物が建っていたというから、今残っていたら1日あっても全部見るのは不可能だろう。
第6代皇帝アウラングゼーブの死後、敵対していたマラタ王国に占拠され、英国統治時代にはインド人傭兵セポイの乱の戦場となって、多くの建物が失われた。主要な建物は残っているのが不思議なぐらいだ。
城内は立ち入りが制限されており、見られる範囲で一番北側にあるのが「ナギナ・マスジド」という白大理石のモスク。白大理石といえば、シャー・ジャハーン帝作と思ったが、アウラングゼーブ帝が造ったとされている。

このモスクは「宝石のモスク」という別名で呼ばれるように、城内では傑作の1つ。こじんまりしているが、3つのドームを乗せた純白のモスクで、内部の装飾は白大理石に直接施した彫刻や、宝石を使った象嵌などで飾られている。城内に住む女性のためのモスクだった。

立ち入りできないが、北側にはナギナ・マスジドと同じようなデザインで白大理石のもっと大きい「モティ・マスジド」という大モスクがあるそうで、そちらは「真珠のモスク」と呼ばれているという。

最後に行ったのは「ディワニ・アーム」。これまでより太い柱が立ち並んでいる。「ここは裁判所でした」とガイド。一般謁見の間といい、皇帝が民衆の訴えを聞く場所だった。「ここで訴えられた人に判決を言っていました」という。
皇帝が座る玉座はいまは前に出てきているが、かつては建物の奥にあったという。皇帝が直接罪人を裁くのがこの国のシステムだったようだが、1人でそんなに裁けたのか、そんなに多くの訴えはなかったのか。なんとなく「儀式」だったように思えた。

ディワニ・アームの横からバザール(市場)があり、今は出入りできないインド門(西門)へと続いている。
3時間ほど歩いて回った後、また南門からでた。城壁の赤は夕日を受けて、さらに赤みを増していた。レッド・フォートと地元の人たちが呼ぶ城は、夕日を受けたときが一番きれいなようだ。

1983年登録

 

 

 

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