グラナダのアルハンブラ、ヘネラリーフェ、アルバイシン(スペイン)
グラナダ~ヘネラリーフェ~ナスル宮殿~メスアール宮~コマレス宮~アラヤネスのパティオ~ライオン宮~アルバイシン
スペインの至宝と呼ばれる宮殿がある。イスラム教徒が造り、キリスト教徒が守った。2015年、行ってみた。
前夜から土砂降りが続いている。「宮殿の中だからいいか」とバスに乗り込んでグラナダ(Granada)市街地から20分後、アルハンブラ(ラランブラ、la Alhambra)宮殿の入口についた時は、なぜか上がっていた。ツキがあるようだ。
イスラムのナスル朝時代につくられた王の離宮「アルハンブラ宮殿」。まず坂道を隔てて隣にある「ヘネラリーフェ」(Generalife)から入った。
よく手入れされた庭園を散策する。雨上がりの薄暗い中、太陽があればもっときれいなのだろう。というのは、いたるところに水路や噴水があり、きれいに刈り込まれた木々や、すっくと立った糸杉が並ぶ。
行ったのは冬だったが、季節によっては花が咲き乱れているという。
簡単にアルハンブラ宮殿について説明を。8世紀にイベリア半島にイスラム教徒が北アフリカから渡ってきて、コルドバという街を中心にイスラム国家を設立。いくつかに分裂し、1238年にナスル朝グラナダ王国が誕生した。
イスラム芸術の粋を集めた宮殿
キリスト教徒による国土回復運動「レコンキスタ」によって、イベリア半島はカトリックの国に再び生まれ変わっていったが、グラナダ王国は「イスラム最後の砦」として国勢を維持し、14世紀にイスラム建築、芸術の粋を集めたアルハンブラ宮殿をつくり上げた。
しかし、スペイン王国を樹立した女王イサベル1世と王フェルナンド2世が攻め、1492年にグラナダ王国の最後の王、ポアブディルが宮殿を明け渡して、「レコンキスタ」が終了、カトリックの国になった。
アルハンブラ宮殿は、入城したイサベル女王とフェルナンド王(カトリック両王)がイスラム建築の見事さに感銘を受け、取り壊さずに一部改修するだけにとどめて後世に残したという。
キリスト教徒の国王夫妻が絶賛
王の離宮だったヘネラリーフェは「水の宮殿」とも呼ばれる。「アセキアの中庭」にある用水路を始め、水はグラナダ市内を流れるダロ川から引き入れて、ここだけではなく、宮殿内のすみずみまで水路を巡らせている。
グラナダ王国時代はこうした庭園がいくつも点在していた。「水と庭園」は砂漠の民だったイスラム教徒にとってはオアシスという楽園を表すという。
ちなみに、ギターの名曲「アルハンブラの思い出」は、へネラリーフェの水の音をイメージしているという。
ヘネラリーフェを出て、宮殿内に入る。四角く刈りそろえられた小道を通ると、遺跡のようなものが出てくる。かつて「メディナ」という旧市街、市場のあった場所だという。
宮殿敷地内にパラドールも
城壁には、グラナダ王国最後の王がイサベルに鍵を渡して退去した扉も残されている。いまはパラドール(国営のホテル)になっている修道院、サンタ・マリア教会を通り過ぎて、広場に出る。
広場には「カルロス5世宮殿」が面しており、反対側には「ブドウ酒の門」という装飾のきれいな門の向こうに、四角い大きな塔が並ぶ「アルカサバ」という軍事要塞が見える。
カルロス5世はイサベル女王とフェルナンド王の孫(娘の子)で、スペインではカルロス1世、神聖ローマ帝国ではカール5世とややこしいが、ここでは「カルロス5世」となっていたのでもっとややこしい。
1526年に宮殿を訪れた際に、イスラム建築を壊さずにルネサンス様式の新宮殿を建てようと決めたが、資金難などで未完成に終わっている。
中に入ると円形の中庭を32本の柱を持つ2階建ての回廊がぐるっと取り囲む。「音響効果は抜群です」(ガイド)というので、中央で拍手してみたが、音の大きさに自分がびっくりしたほどだった。
カルロス5世宮殿は「ムセオ」(博物館)になっている。その後の見学に生きるので、時間のある方はのぞいてみては。ここをでて、アルハンブラ宮殿の中心「ナスル朝宮殿」に入る。
「赤い城」に密集する宮殿
アルハンブラ宮殿は軍事要塞といくつかの宮殿のほかに、市場や居住地から墓地まで集めた「街」の総称。赤土の丘に建てられたことから「赤い城(アルハンブラ)」と名付けられたという。
ちなみに、グラナダというのはスペイン語で「ざくろ」のことで、ざくろの多い土地だったとされる。
宮殿最大の見所は「ナスル朝宮殿」の内部。かなり厳しい持ち物検査を受けて、中に入った。
ナスル朝宮殿はいくつかの宮に分かれている。まず「メスアール宮」に入る。「メスアールの間」は、グラナダを攻略したカトリック両王のイサベル女王が最初に入った部屋だという。
イサベル女王は、その豪華さ、希少価値にすぐ気づき、この宮殿に「手をつけない」と決めたという。こうした「宗教の対立」では相手の寺院や建築などを壊してしまうのが常だが、女王はカトリックの生活に必要最低限の改修のみにとどめた。
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