古都奈良の文化財(日本) 興福寺・元興寺

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仏像は好きな女性を「仏女」「仏像ガール」というらしく、中でも「興福寺」の「阿修羅像」好きの女性を「アシュラー」と呼んでいたこともあった。

2009年3月半ば、東大寺のお水取り(修二会)を見に奈良に行った際に興福寺に寄った。阿修羅人気が爆発した東京国立博物館での「国宝 阿修羅展」は3月31日からだったので、その2週間前ならまだ大丈夫かと思って行ってみたが、もう本人はおられなかった。朱印をいただき、阿修羅像がいない国宝館をぶらっと見て、雨模様だったので境内をざっと散策して帰ってきた。

また近くに行く機会があったので、今度こそ阿修羅像を見ようと2016年、行ってみた。

平城京遷都とともに隆盛を誇った興福寺

今回も雨だった。JR奈良駅から路線バスでもいいが、雨がそんなに強くなかったので駅から右へ三条通りに入り、商店街をぶらぶらと歩いて「猿沢池」へ。途中の店に引っ掛からなければ、15~20分で着く。

すぐ横の高台に興福寺の「五重塔」が見えている。そこから階段を上がると、五重塔の下に出る。

境内案内図の裏面にある興福寺の説明書きによると、高さ50.1㍍で日本第2位(1位京都・東寺54.8㍍)。最初の塔は730年に聖武天皇の皇后、光明皇后によって建てられ、焼失などを経て現在の塔は1426年に建てられたものだという。

先に簡単に興福寺の歴史を知っておいた方がいいだろう、と説明書きを読む。天智天皇8年(669年)に、大化の改新を成し遂げた藤原鎌足が発願してつくられた釈迦三尊像、四天王像を安置するために、夫人の鏡大王(おおきみ)が京都の山科の私邸に「山階寺」を建立。その後飛鳥に「厩坂(うまやさか)寺」と称して移転したが、710年の平城京遷都とともに鎌足の子の藤原不比等によって現在の地に移され「興福寺」となったという。相当古い。

奈良時代に多くの伽藍がつくられ、春日大社の実権も収めて寺勢が強まった。平安時代に入ってたびたび、朝廷に強訴するなど、強権を発動したこともあってか、平安時代末期、平家の力が強かった1180年に平重衡による兵火で、伽藍はすべて焼失した。その約400年後にあった比叡山の焼き討ちと構図は似ている。今残っている建物の多くは、鎌倉時代に再興されている。

明治時代になって廃仏毀釈で寺が荒れたが、徐々に復興して今の姿がある。歴史の詳細は興福寺のHPに詳しく掲載されている。

国宝満載、阿修羅像にやっと会えた

境内案内図に沿って、五重塔から反時計回りに境内を見て回った。五重塔の隣が「東金堂」。元々は聖武天皇が726年に建てた。

「国宝館」がセットになった入場券(800円、現在900円)で東金堂の中に入った。創建以来6回焼失し、1415年に再建されたもの。それでも600年以上たっている。五重塔とともに国宝でもある。

薬師如来と日光・月光菩薩の三尊が安置されている。写真は撮れなかったが、東金堂のパンフレットにあった。そのほかにも、文殊菩薩像、十二神将立像、四天王立像など国宝が収められている。

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