富岡製糸場と絹産業遺産群(日本)
田島弥平は幕末から明治にかけて、それまでは屋外で自然に任せて育てていた蚕を、屋内で温度や湿度を管理することで生育を伸ばす「清涼育」という飼育法を全国の養蚕農家に広めた。
自宅の建物を飼育に適する環境になるように改良を重ねた。主屋兼蚕室は1階が住居、2階が蚕室で、屋根の上に「やぐら」と呼ばれる換気口に当たる小屋根(越屋根)をつけて空気を循環させて、蚕に最適な環境をつくりだした。田島弥平は技術として多くの著書も残している。
養蚕技術の向上で、優秀な蚕種(さんしゅ=蚕の卵)もとれるようになった。田島弥平はこの蚕種を貿易品にした。
1879年(明12)に米国からフランス、イタリアに直貿易に行った時に「1匹の蚕は卵を500~700個ぐらい産むのですが、今のA4ほどの和紙に2万個を産ませて、それを5万枚持っていったそうです。1枚の和紙は最高値で5円以上したこともあったそうです」(解説員)。
当時の5円の価値はピンとこないが、1885年(明18)に1円銀貨が発行されており、比較対象によって違うが、今の価値でだいたい2万円ぐらいという。5円だと10万円、5万枚では5000万円。この価値もピンとこないが、蚕の卵は大きな利益をもたらしたことが確かだろう。
旧宅に現在も子孫が住んでいるため、ここで話を聞いて建物の見学は最小限に抑える。1863年(文久3)に建てられた主屋は現存しているが、蚕室専用の建物だった「香月楼」「新蚕室」は移築、解体されて基壇だけが残っている。個人宅なので、あまりズカズカ踏み込まないように気をつけよう。
主屋は越屋根がついた長い建物。かつては主屋の隣にあった新蚕室につながる2階の廊下は途中まで残っていた。道路を挟んだ畑には、さまざまな種類の桑が植えられていた。
温度管理で繭の生産量を上げる
群馬県藤岡市にある「高山社跡」も養蚕技術に関わっている。こちらは創始者の高山長五郎が試行錯誤の末に「清温育」という養蚕技術を編み出した。
高山社の前身の高山組ができたのが1873年(明6)で富岡製糸所の操業開始の直後。蚕室では「暑い時は部屋を開放して温度を下げ、寒い時は火力で温度を上げる」という管理方法で収繭量を増やし、品質を向上させたという。
田島弥平の「清涼育」とは逆のように思うが、温度管理を発展させて成功したということらしい。高山社となってからも研究や教育を行い、全国に指導員を派遣して広めたという。
今の母屋は1891年(明24)に建てられたもの。養蚕技術を学ぶ分教場だった。ここでも解説員が丁寧に説明してくれるので、お願いしよう。主屋に入って驚くのは、1階の天井がスカスカで、すのこ状になっている。1階には囲炉裏がある。
2階にいくと、蚕棚や火鉢置き場などもある。2階からのぞくと真下にすのこを通して囲炉裏がある。暖かい空気が2階に上がるようになっており、基本的には寒い時に暖めることが重要だったようで「温度を25、26度に保っていた」(解説員)という。屋根には開閉式の換気口がついていた。
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