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ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域(イタリア) エルコラーノ

ローマ~ナポリ~エルコラーノ

おびただしい人骨が、倉庫のようなところに収められている。イタリア・ヴェスヴィオ火山(Il monte Vesuvio)の噴火で一夜にして失われたポンペイ(Pompei)の話は先に紹介したように有名だが、悲劇に襲われたのはポンペイではない。同様に壊滅的な被害を受けた街、ヘルクラネウム(Herculaneum)、現在のエルコラーノ(Ercolano)に2016年、行ってみた。

静まり返る廃墟の街

ローマから高速道路をバスでナポリに向かう。途中から左手に大きな山が見えてくる。イタリアの火山の中でも特に有名なヴェスヴィオ山だ。この山が79年、大噴火を起こし、ナポリ周辺の街を火山灰や火砕流などで飲み込んだ。


ポンペイ遺跡は有名だが、失われた街は1つではない。エルコラーノの街も、火山噴火で埋まった街の1つだ。
ローマから2時間半ほどでナポリの街へ。ヴェスヴィオ山山腹にあるレストランで昼食をとった。1月下旬だったので、山頂付近には雪があった。
そこから30分ほどで、このローマ帝国の街に着く。


ちょっと雨模様だったこともあるのか、現在の街並みのすぐ近くにある遺跡はシーンとしている。遺跡なので人が住んでいないのは当然なのだが、街がなくなった経緯を聞いてきているだけに、より「廃墟」の印象が強くなる。
歩き始めて、下に広がるエルコラーノのかつての街並みを見下ろすと、倉庫のようなものが並び、中が見える。「何か見えますね」「あそこまでぐるっと歩いていきます。当時の被害の様子が分かります」とガイドはいう。

上流階級の人たちの別荘地

道を下って、街に入る。石畳の道がまっすぐに伸び、その周囲に建物が並ぶ。整然とした街並みだ。
壊滅当時の街名ヘラクレネウムというのは「ヘラクレスがつくった街」という意味の港町だったそうで、貴族ら上流階級の人たちの閑静な別荘地になっていた。
約2000年前の79年8月、ヴェスヴィオ火山の噴火で街は丸ごと埋まってしまう。1709年、農民が井戸を掘っていてこの街を発見した。


ポンペイは人口1万を超える商業都市だったが、こちらは人口4000人ほどの街で、頑丈だったのか、壁や屋根が残っている建物も多い。道路の石畳も、ポンペイの石畳の道にはあった轍(わだち)はなく、人や車の行き行き来もそう頻繁ではなかったらしい。


「骨の家」と名付けられた家に入って見る。壁はレンガや石とセメントで造られ、積み方にも工夫がしてある。たぶん財力があったのだろう。壁には赤いフレスコ画の色が残っている。


家の一角、「ダイニングだったといわれています」の建物の軒下の壁には、青いモザイク画が。古代ローマ時代の海神「ネプチューン」のモザイクで、色も形もしっかりと残っている。


壁などをよく見ると小さな彫刻があったり、手が込んでいるのが分かる。中庭のようなところには「神棚」(ガイド)という、お祈りの場所もあったようだ。

低温の溶岩が街を埋めた

街中を散策する。教会や商店の跡、円形の井戸と水をためた水槽などが点在している。「アウグストゥスの神殿」という建物がある。


古代ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの名前がついた建物は壁画で飾られている。ちなみに建物の名前は発掘された後につけたものだというので、当時そういう名前だった訳ではない。
色はかなり残っていて赤色がきれいだ。描かれているゼウスやミネルヴァ(アテナ)などギリシャ神話の神。元々はギリシャの植民地でローマ帝国に支配された紀元前2世紀ごろに街になったという。

「ゼウスとミネルヴァ」の壁画

ポンペイは火山灰と高温の火砕流に襲われて壊滅した。降り積もった火山灰は6㍍に達したといわれているが、エルコラーノの場合は数度の火砕流と「低温の溶岩が襲ってきた」(ガイド)という。
溶岩は20㍍以上も街を埋めてしまった。ポンペイほど高温ではなかったことと、それまでの火砕流で蓋をされた形になってすっぽり埋め尽くしてしまったので、建物の外観や内部の壁画の色なども残ったとされるそうだ。


さらに進むと「凱旋門」。天井は花の彫刻で飾られている。何の凱旋か聞いたが、ガイドにも分からなかった。

生活の痕跡も残っている

エルコラーノ遺跡の中でも保存状態がいいのが「ポセイドンの家」。壁画がかなり残っている。ポセイドンはギリシャ神話オリンポス12神の1人で海の支配者、古代ローマではネプチューンと呼ばれていた。港町だけに、この海神が好きな街だったらしい。


壁に描かれているのが「ポセイドンとその妻アンプトリータス」のモザイク画。色遣いも含めて、きれいに残る。現在の家にすぐに飾れるぐらいの出来映え、残り具合だ。


ワインを保管する壺アンフォラが大量に置いてある部屋もあった。裕福な人が住んでいたというのはこういうことらしい。

「当時の街は鉛の管で水を引いてきていたので水質がよくなくて、寿命も男性で40歳、女性で30代前半と長生きできなかった。水質が悪いので、代わりにワインを飲んでいた」とガイド。水代わりにワインを飲む人は昔からいたようだ。ただ、アルコール度数は低く「5%ほどといわれています」という。
繁華街だったと思われる交差点にきた。角にはポンペイにもあった「居酒屋」風の店がある。

かつての居酒屋?

貴族の別荘地とはいえ、貴族だけが住んでいたわけではないだろう。大衆のたまり場だったのだろうか。テーブルに埋め込まれた甕には「ワインやオリーブオイルが入っていたとされます」という。

近くには透明のカバーがかかっていたが「当時のメニューです」という絵が壁にある。ワインの種類を絵で描いていたようだ。

「パン屋でした」という店にはパンを焼く窯がある。今のピザ窯に似ている。当時もピザを焼いていた、なんてことはないのだろうか。

パン屋の窯

公衆浴場や井戸などもあって、このあたりは生活の匂いがする。少し離れたところには「競技場」がある。またトレーニングジムだったという建物もある。貴族も健康管理が大事だったのだろう。

競技場

人骨が語る被害の様子

埋め尽くした溶岩が比較的低温だったのが分かるのが「木の階段」。ポンペイのような高温の火砕流ではひとたまりもないが、炭化しかけているとはいえ木が残っているのがその時の状況を伝えているように思える。建物にも炭化した木の柱や梁が残っているものも多い。


2時間ほど街をぐるっと回って、溶岩層を貫いたトンネルを抜け、最初に高台からのぞいた倉庫のような建物に向かう。ガイドは「ボートハウス」といっていた。
いくつかの部屋の中は丸見えになっていて、中にはおびただしい数の人骨が散らばっている。


「ここは船庫でした。噴火の後に逃げ遅れた人が避難してきたのでしょう。ただ、一瞬に埋まってしまったと考えられています」という。年月を経て人骨は残り、発掘された。


人が集まったのは「かつては海に面していました。ここから船で逃げようとしたのかもしれません」という。今は海の気配もない。溶岩が海も埋めてしまったのか、今の海岸は2㌔先だという。当時の人たちの絶望感が伝わってくる。


一瞬のうちに飲み込まれた街は、1739年から発掘が始まったが、遺跡の上にすでに街ができており、固い溶岩にも阻まれてまだ4分の1程度しか発掘が進んでいないという。今後も新しい発見があるのだろうか。

1997年登録

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