アブ・シンベルからフィラエまでのヌビア遺跡群(エジプト)


カデシュの戦いは証拠が残る最古の和平条約が結ばれた戦いで、エジプトにとっては負けに等しい引き分けだったことが、ヒッタイトの遺跡であるトルコ・ハトゥシャ遺跡の発掘でほぼ確かめられている。
ここエジプトでは華々しく勝ったように描かれているが…いつの世も、独裁者は自分を偉大にみせようとするものだ。


神殿の一番奥にある「至聖所」には、太陽神ラー、守護神アメン・ラー、宇宙の創造神プタハと自分を、神として描いた像の4体が並んでいる。
春分、秋分には、神殿入り口から差し込む太陽の光が、4体の像の真正面から当たるようになっているという。3000年前の技術もすごいが、同じになるように移築した現代の作業の正確さにも感心する。

アブ・シンベルの両神殿。大神殿(左)と小神殿

砂に埋もれていたのが幸いした

小神殿。大神殿から数分歩いたところに造られている。こちらは、ラムセス2世の王妃ネフェルタリのために造られ、美の女神ハトホル神をまつってあるという。

アブ・シンベル小神殿

王妃の名は「もっとも美しい女性」の意味で、古代エジプト3大美人(ネフェルティティ、クレオパトラ)の1人だそう。神殿の正面には、ネフェルタリの像2体と、ラムセス2世像4体がそびえたっている。自分の方が多い。


こちらも、壁面のレリーフははっきりと残っている。両神殿とも大きいことはもちろんだが、20世紀初めに掘り出されるまで、長く砂に埋もれていたのが幸いしたのだろうか、砂漠の風化の影響が少なかったため、精緻なのが印象的だ。


ピラミッド建設は、民衆のための公共事業だったという説が有力。こちらの両神殿は、ラムセス2世が富と権力を誇示するための建設とも言われているので、庶民には迷惑だった事業だったのかもしれない。

王朝を立ててしまった辺境の王

ヌビア地方というのは、先述した通り、ナイルの上流、今のエジプトとスーダンにまたがる地域のことで、いわば辺境の地だった。
「ヌビア」とは黄金の意味だという。金が採れた。となれば、だれかに狙われる。エジプト王朝は、ヌビア遠征と称して古王国時代の紀元前2600年ごろには既に支配下に置いた。
ただ、搾取されているだけではなく、エジプト王朝が不安定だった紀元前744年にはヌビア(クシュ王国)の王がエジプト全土を征服して第25王朝を立ててしまったというから、被征服者としては痛快だっただろう。
現在は、アスワン・ハイダムによって、かつてナイル川に沿って栄えた場所が水没してしまっている。


数多くの遺跡もあったが、アブ・シンベル神殿同様にユネスコの救済事業で移築などによって助かったものもある。
ダムの街アスワンにはヌビア遺跡群の1つ、フィラエ神殿(Philae、イシス神殿)がある。ナイル川に浮かぶフィラエ島にあったが、少し高い隣のアギルキア島に移築された。
この島をフェラエ島と改名した上、元のフィラエ島に似るように島全体を改造したというから、ただの移築ではない、こだわりを感じる。島へは、渡し舟でいく。

エジプト統一の証を伝える神殿

船着場から上っていくと、フィラエ神殿に入る四角い塔門が目に付く。アブ・シンベル神殿が壮大すぎて比較にならないが、こじんまりして実用的な神殿という感じ。壁に刻まれたレリーフがくっきりしている。

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