マチュピチュの歴史保護区(ペルー)

自然石を取り込んだ巧みな家々

一応、順路を示す標識はあるが、路地に入ると同じような石組みの建物だらけで、どこを歩いているか分からなくなる。その場合は上るか降りるかして位置を確認したほうがいい。
「技術者の居住区」「2階建ての家」「3つの入り口の家」など名前がついたものはあるが、あくまで後からつけられた名前。何に使われていたかは分かっていない。「夏至の石」というのがあった。石組みの上に自然石が乗っかっており、自然石には3段の階段にいすのようなものが彫られている。「ここに座ると夏至の太陽が正面に見えた」とガイドは説明した。

主神殿の石組みはピッタリとあわされていた。居住区域の石組みはちょっと不ぞろいな仕事ではあるが、たぶんそこに最初からあったであろう自然石の巨石を巧みに石組みに組み込んで利用している。その技術や発想力にもびっくりさせられる。

削る道具も運ぶ道具も今とはまったく違う中で、どうやってこれだけの石組みをつくれたのだろうか。建物の総数は約200とされ、いまは天井には何もないが、イチュというイネ科の植物で屋根を葺いていたとされ、一部復元されている建物もある。

街には最盛期でも500~1000人ぐらいしか住んでいなかったとされている。太陽崇拝と天文観測のための「宗教都市」という説が有力だが、アクリャ(太陽の処女)という巫女が生活し、太陽にささげるチチャ酒をつくるトウモロコシをアンデネスで栽培していたとも言われているそうだ。

造られた目的の謎が解けない

スペイン人の征服を逃れるための都市ではなく、その前から神聖な都市だったのだろう。出土した土器などはインカ帝国がアンデスを統一した15世紀ごろのものだという。
スペインの侵略者フランシスコ・ピサロ一行によってインカ帝国が滅ぼされたのが1532年。そのころには、この都市は棄てられ、しかも忘れられていたというから、存在はほんの一握りの人しか知らなかったということなのだろうか。いずれにしろ、謎だらけなのが街の魅力でもある。

重要な建物の1つに「太陽神殿」がある。行ったときは内部に入れなくなっていたので「上から見たほうが分かりやすいです」と、上段部から見た。カーブした壁には四角い窓が2つ空いており「左は夏至、右は冬至のときに太陽が窓の正面に見える」という。

差し込んだ光が当たる場所には大きな石があり、そこにいけにえなどをささげたのだろうか。太陽神殿の下には墓地があったという。また、イチュで屋根をつけている「皇帝の部屋」と、2階建ての「王女の宮殿」が、太陽神殿をはさむよう建っている。

いよいよ居住区も終わりに差し掛かるところには「コンドルの神殿」。地面にはコンドルの頭とくちばしを表した石が埋め込まれ、その背後には自然石を利用して2枚の羽を広げたような石が立っている。

右の羽になっている石の下には人1人がやっと通れる洞窟がり、中に入ると途中に祭壇のようなものがあった。「動物の骨などが出てきたというので、いけにえを捧げていたのかもしれません」という。

狭い洞窟を抜けると、アンデネスが整然と並ぶ開けた場所に出る。なぜか、ため息が出た。空気が薄いためではなく、マチュピチュを巡ってきた充実感だろうか。

水の音がする。アンデネスの脇にはいまも水が流れる水路が残っていて、こちらも「段々」に水が落ちていく。

アンデネス越しに、マチュピチュ村からバスで上がってきた「ハイラム・ビンガム・ロード」が見える。そこを下っていくと、この街とお別れだ。遺跡に入ったときには霧でほとんど見えなかったのがうそのようだ。
「見えてくれてありがとう」。出口に向かいながら、自然と何度も振り返っていた。

1983年登録

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