慶州歴史地域(韓国)

三国統一で生まれた新羅

新羅について少し説明を。慶州で買ったガイドブックによると、紀元前57年に、高句麗、百済の後に建国され、三国時代になった。韓国ドラマでも知られる善徳(ソンドク)女王は7世紀半ばで第27代国王。新羅の国力を強め、第29代武烈(ムヨル)王と、将軍金庾信(キム・ユシン)の時に新羅が三国を統一した。
そのころ、日本の歴史でも習う「白村江の戦い」(663年)で新羅・唐の連合軍が日本(倭)・百済連合軍を破っている。676年の第30代文武王が唐を追い出して半島統一が完成。9世紀に入り後高句麗(後に高麗)と後百済が興り、935年に高麗へ政権を譲って新羅は滅亡した。
1100年ほど前まで、1000年近くに渡って続いたことになる。金城と呼ばれた都は慶州と改称された。

最大の古墳群を歩く

「大陵苑」に向かった。慶州市街地にある慶州でも最大の古墳群で、大小30基以上が密集している。入口付近の食堂で昼食後、中に入った。

松林の中の道を行くと、周囲を塀で囲まれた「味鄒王陵」が見えてくる。苑内で被葬者がわかっている唯一の陵墓だという。そこから、道の両側に古墳が並ぶように現れる。

広場のような所に出ると、2つの古墳が重なり合っている双墳の「皇南大塚」がある。高さ25メートルで、慶州の古墳でも最大級の大きさだという。発掘では1つは男性陵、1つは女性陵だったというので、夫婦の墓のようだ。

盗掘に遭わなかった工夫は

皇南大塚と池を挟んで隣が「天馬塚」。この古墳だけ、内部に入れるようになっている。
内部は撮影禁止でうす暗い。目が慣れてくると、壁はあまり大きくない丸っこい石を積み上げてできているのが見える。
この古墳は5~6世紀ごろのものだといい、出土品に天馬が描かれていたことから天馬塚と名付けられた。出土品が豊富で、中でも金冠が出土しており、慶州博物館で実物が展示されていた。

皇南大塚からも金冠が出土するなど、多くの古墳から副葬品が見つかっているという。街中にあって盗掘されなかったのが不思議だが、人の目のある方が盗まれにくいのだろうか。
天馬塚の構造では、柩の部屋の周りを丸い川の石を積み上げて厚く覆っているため、入ろうと穴を開けるとバランスが崩れて崩落するということらしい。天馬塚をどうやって発掘したのかはわからないが。
大陵苑を出て自転車に乗って走り始めると、タイヤの空気がほとんど抜けていた。やむなく、高速バスターミナル近くの店に乗ったり押したりしながら戻って抗議したが、パンク個所も確かめず、交換もしてくれなかった。やむなく妻の自転車に乗り換えたが、借りるときは点検を忘れずに。

善徳女王が建てた香りの寺

2時間近く無駄にしたが、世界遺産に登録されている「皇龍寺地区」の「芬皇寺(プヌァンサ)」に向かった。標識が少なく、迷いながら40分ほどかかった。

「芬皇寺」は善徳女王の時代の634年建立。大伽藍だったそうだが、元の侵入や壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)でほとんどが焼失した。現存する最古の石塔「三重塔」だけが残っている。上部が壊れているが、元々は九重か七重だったという。
4面にある塔入口の両側には仁王像の彫刻があり、基壇の四隅には獅子とオットセイ? あざらし? の石像が2体ずつある。なぜオットセイなのかはわからなかったが、足があるので別の動物なのかもしれない。山側を獅子、海側をオットセイが守る形になっている。

ちなみに「芬皇寺」の意味は「皇帝の香りの寺」だそうで、女王が建てた寺らしい名前になっている。

芬皇寺に隣接して、原っぱに石が点在している広い場所がある。「皇龍寺跡」で553年から93年かけて建立された新羅最古、最大の寺院だったという。元の侵入時に焼失した。

巨大な九重木塔が立っていたという。伽藍配置は日本の飛鳥寺や法隆寺に影響を与えたらしい。慶州博物館に出土した鬼瓦や復元模型があるので、往時をしのべる。

日が傾いてきたので、この日最後の行き場所を思案していると、日本語が少し分かるチケット売り場の女性が親切に相談に乗ってくれた。
遠い「南山地区」「山城地区」はもちろん、善徳女王陵や金庾信墓などいくつかの場所は諦め、自転車返却もあるので、市街地に近い新羅の半島統一を成し遂げた武烈王陵に決めてペダルを踏んだ。

武烈王陵

2000年登録

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