古代都市テーベと墓地遺跡(エジプト) ナイル川西岸

ルクソール市街~メムノンの巨像~葬祭殿~王家の谷

聖徳太子が「日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす」という手紙を隋の煬帝に送り、怒らせたという話がある。太陽が昇る東と沈む西の対比は、世界中にあったのだろう。
ルクソールのナイル川東岸には神殿を中心とした生者の街だったのに対して、「ナイル川西岸」は「王家の谷(Valley of The Kings)」はじめ墓所遺跡を中心した「死者の街」と呼ばれている。東岸を見た後、ルクソールに泊まり、翌日西岸に向かった。

「死者の街」の門番、葬祭殿の数々

「メムノンの巨像(The Colossi of Memnon)」が、死者の街の門番のように建っている。顔の大部分は壊れ、全体にもひびが入った2体の座像。高さ20㍍ぐらいか。トロイ戦争に参加して、アキレスに殺されたエチオピアのメムノン王の名をとったそうだ。
元々は新王国時代(紀元前1565~1070年ごろ)のアメンホテプ3世の葬祭殿の前に立っていた同王の像だという。葬祭殿はその後の石切り場になってなくなり、像の名前もはく奪されたアメンホテプ3世という王に何か問題があったのだろうか。


砂漠の山に近づいていく。そのふもとには、葬祭殿の遺跡が点在している。「ラムセウム」というのはラムセス2世、「メディネト・ハブ(Medinet Habu)」というのはラムセス3世の葬祭殿。メディネト・ハブに行った。


東岸の神殿同様に大きな柱、壁のレリーフなどで作られている。レリーフにはまだ彩色が残っているが、派手な巨像や彫刻などがなく、寂しげな雰囲気なのは葬祭殿らしい。

ラムセス3世は、建設王で有名なラムセス2世の100年ほど後、紀元前1182 ~1151年頃に在位していたとされている。建設王との関係は分からないが、葬祭殿もラムセウスに習って造られているそうで、ラムセウスには行かなかったが、同じような雰囲気なのだろか。

抹殺されたただ1人の女性ファラオ

葬祭殿の中でもっとも規模が大きいのが「ハトシェプスト女王葬祭殿(Mortuary Temple of Hatshepsut)」。入り口から長いトロッコのような車に乗せられた。

1997年、ここで起きた日本人が巻き込まれた銃乱射事件は記憶に残っている方も多いのでは。行った当時は銃を持った警備兵の姿が目に付き、自然と体が硬くなった。緩やかな斜面を上がっていくと、神殿にたどり着く。


古代エジプトでただ1人の女性のファラオで、夫トトメス2世の死後、実子ではないトトメス3世までの間、紀元前1479年~1458年ごろに在位していた。王位を簒奪(さんだつ)したという説もあり、男装していたという。


確かに、葬祭殿にある女王像などはファラオ独特の付け髭はあったが、多くの壁画やレリーフはトトメス3世によって削られてしまったそうだ。


それでも、壁画の一部には彩色が残り、彫りもしっかりしているものもある。葬祭殿を守るように背後にそびえる岩山の反対側に、王家の谷がある。

王家の谷になった特殊な場所

荒涼とした砂漠の山の中、谷を遡っていき「王家の谷」入り口にたどり着く。「あの山の形、何に見えますか」とガイドの問いに、前方のエル・クルン山を見る。頂上部分がちょうどピラミッドの形に見える。

王家の谷の背後にそびえるエル・クルン山

「この場所を墓に選んだのは、ピラミッドに見守られるからだといわれています」と説明した。この特殊な場所は、トトメス1世の紀元前1520年ごろから約500年間、新王国時代の王と家族、貴族の墓所になった場所だ。
王墓22を含めて64の墓が点在し、まだ発見されていない墓がある可能性は高いという。近くには王妃の墓を中心とした「王妃の谷」というのもある。
真っ先に向かうのはやはり「ツタンカーメン王の墓(Tombs of Tutankhamun)」。副葬品のほとんどは現在はエジプト考古学博物館(カイロ博物館)に移されているが、王のミイラはここに眠っている。

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