
明治日本の産業革命遺産群(日本) 軍艦島・三菱重工長崎造船所関連施設(長崎エリア)

洋上から見た「戦艦土佐」に似た姿
最盛期には人口5300人を抱える過密都市(島)で、家族で暮らす人も多かったので、高層の団地や商店、小中学校に病院、飲食街や映画館(昭和館)、お寺や神社などもあった。交番もあり、留置場はまだ壊れずに残っているという。
1974年(昭和49)に閉山。無人島になった。
上陸してすぐに、そうした建物などが島の上に密集していることがわかる。
島を自由に見学できるわけではなく、決められた見学ルートをガイドとともに歩いていく。パンフレットのマップが役に立つ。

無人になって40年、廃墟の中に往時をしのぶ
第1見学広場。正面が広場のように広くなっている。ここが「貯炭場」で、石炭置き場だったところ。廃墟のような光景の中に、ベルトコンベアーの支柱が整然と並んで立っている。ローマ遺跡の神殿の柱のようだ。

第1見学広場から見る貯炭場
貯炭場の左手の岩山の家に大きなアパートが建っている。「高級鉱員3号アパート」で、島内にはこうしたアパートが所狭しと立っている。高級鉱員というから、肩書などによって住むアパートが違っていたのだろう。

貯炭場の先に少し白っぽい建物がある。小中学校だった。

端島小中学校
第2見学広場。採炭にかかわる施設が続いている。壊れた赤いレンガ造りの建物は総合事務所で、ここには共同風呂もあり、仕事を終えて上がってきた鉱員が汚れを落とした。体中、石炭の粉で真っ黒だったという。
総合事務所の右には、第二竪坑に下りていく桟橋。ここから鉱員はエレベーターで地下に下りて行った。「エレベーターのスピードは通常の8倍、1秒で8㍍のスピードだった」とガイド。それだけでも酔いそうだ。
坑道は最終的には地下1100㍍近くまで達し、温度30度、湿度95%という悪条件の中での作業だったという。

主力だった第二竪坑への桟橋跡(右)
第3見学広場へ向かう。建物はほとんどが大きく崩れている。護岸堤防の上部と思われる残がいもある。
人が壊した訳ではないのに40年ぐらいでこうなるのだろうか。「台風などの風や波によって壊された」(ガイド)と、雨や潮風にさらされ、弱ったところを台風などの暴風や高波で少しずつ壊れていったのだろう。
人が住んでいないと家は荒れるというが、ここを見ればわかる。海洋建築物の風化を研究する場にもなっているという。
「日本初」が多い最先端の街
第3見学広場。目の前が広くなっているが、かつては倉庫などがあった。その先に大きなアパートがまだ立っている。

第3見学広場から30号アパート(正面)と31号アパート(左)
「30号アパート」で、1916年(大正5)に建てられた、日本最古の鉄筋コンクリート7階建て。行った時がちょうど築100年だった。
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