昌徳宮(韓国)

ガイドブックにはそんなに詳細な地図はなかったので、当たりをつけて出たところが進善門の横だった。くぐると左手に「仁政門」が見える。

李氏朝鮮王朝の中心地へ

このあたりが、李氏朝鮮王朝の政治の中心地。門を入ると、また広い広場。テレビドラマでよく出てくるような場所だ。白い石畳に道が付いており、門から基壇の上に建つ2階建ての巨大な「仁政殿」にまっすぐ伸びている。


道の両側には小さな石版が並んでいた。「従五品」「正三品」など、仁政殿に近くなるにしたがって数字が減る。
かつての日本の朝廷にもあった「正一位」とか「従三位」とかいう位と同じく、序列が示され、立つ位置が決まっていた。一応、遠慮して「従三品」で写真を撮った。


ここでは重要な国事を行っていた。1405年に昌徳宮創建時に同時に建てられたが、1592年の壬辰倭乱(豊臣秀吉の朝鮮出兵)で焼失。第15代光海君によって1610年再建、1803年にまた焼失したが翌年再建された。
石段を上がると内部を見られる。彩色された天井は高く、赤い柱が支えている。中央の御座(王の座)がある。もっときらびやかと思ったが、そうでもなかった。柱などについている電灯は、現代風のものだった。

仁政殿内の玉座

昌徳宮について簡単に。1405年に第3代太宗が宮殿「景福宮」の離宮として建てた。だが、王たちは主に昌徳宮に住み、政務を行ったという。
壬辰倭乱で焼失後、景福宮は土地が不吉だとして再建されず、昌徳宮が再建されて1610年完成。景福宮が再建されるまで250年以上も王宮として使われてきた。
日本統治時代に内殿の一部が火事に遭い、景福宮から建物を移築するなどオリジナル性が乏しくなって、第2次大戦後は荒れたままだったが、1991年から復元が進められた。

焼失、再建を繰り返した宮殿

仁政門をでて「粛章門」を通ると今度は「宣政殿」の一帯に出る。王の公式の執務室で、臣下との各種会議が開かれたところだという。壬辰倭乱の時と、第16代仁祖が昌徳宮を再建した光海君をクーデターで追い出した仁祖反正の時に焼失したが、1647年に再建。「宣政門」をくぐると、屋根がついた廊下が続いていて「宣政殿」につながっている。

ここも内部を見学できる。仁政殿を小ぶりにしたような雰囲気の内部の造りで、緑や赤茶を主体に彩色された天井や壁、置いてある御座は低めだった。よりくつろいだ雰囲気だったのだろうか。

宣政殿の玉座

一応、ガイドブックを頼りに歩いたが、各所には案内板が立っている。ただし、ハングルと英語表記なのでご注意を。一般観覧でも日本語のガイドツアーがあるというので、秘苑観覧との時間を調整して申し込めばいいかもしれない。
さて、政治に重要な2つの場所を過ぎると、王室の生活の場になる。まず、王の寝殿兼執務室だった「煕政堂」。1917年に焼失し、景福宮から建物を移築して造ったので、昔とは違うそうだ。そういえば、それまでの建物とは正面からして雰囲気が違う感じだ。

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