フエの建造物群・下(ベトナム)

愈謙榭と冲謙榭

左手に池のほとりから立ち上がる斜面に沿って建物がある。目立つ門は「キエム・クン(謙宮)門」。建物名などほとんどに「謙(キエム)」の字が使われている。

門をくぐると、後ろには「ホア・キエム(和謙)殿」と呼ばれる寝殿がある。和謙殿の裏に行くと、中庭のようになっていて、似たような外観の建物が四方を囲んでいる。和謙殿から見て左に「オン・キエム(温謙)堂」、向かいに「ルオン・キエム(良謙)殿」、右に「ミン・キエム(鳴謙)堂」とある。礼拝のためのエリアだという。

トゥドゥク帝廟・和謙殿

良謙殿

かつては劇場だったという鳴謙堂に入った。椅子は玉座だろうか。天井には星座図が書かれていた。現在とは星の結び方が違うようだが、北斗七星とオリオン座と思える星座があった。昔から見つけやすい星座だったようだ。

鳴謙堂天井

鳴謙堂・玉座

この一角から出て、池のほとりの冲謙榭で一休みしてから、今度は陵墓のあるエリアに行ってみた。礼拝エリアと隣り合ってある。まず官僚や動物の像が立っている「拝庭(廷)」がある。

その先にトゥドゥク帝の「碑亭」。扉はなく、内部に大きな石碑が立っている。漢字5000字でびっしり刻まれている。普通は次の皇帝が功績などを書くのだが、トゥドゥク帝自らがフランスとの協定の経緯や子供ができなかったことなどが書いているという。

さらに奥に陵墓があるのだが、門があり、衝立があり、さらに小さな門があってその奥。簡素な石棺が置かれている。

グエン王朝の皇帝で陵墓と遺体のある場所が一致しているのはカイディン帝だけで、あとはどこに葬られたかはわかっていないそうだ。なので、ここも石棺だけだと思われる。

少し足を延ばして奥に行くと、皇后や第6代皇帝で半年で亡くなった甥のキエンフック(建福)帝墓などもある。

キエンフック帝墓

最も嫌われた皇帝だった?第12代カイディン帝廟

車で15分ほど、次の「カイディン(啓定)帝廟」へ。丘というか山の斜面に造られている。最初から階段が待ち受けている。

カイディン帝は王朝末期の第12代皇帝で、在位は1916~25年。陵墓は「応陵」と呼ばれる。帝が崩じた後も造営が続けられ、1931年に完成した。

フランスに擁立された皇帝で、傀儡ともいわれた。文字もフランスの意向で中国の影響がある漢字から現在のベトナム語の文字に替えた。陵墓にもバロック様式を取り入れて東洋様式と欧州様式が混在する建築になっている。

段々畑のように5段のエリアがあり、1段目に入場券売り場、2段目は広い「拝庭」。真ん中に「碑亭」があり、カイディン帝の功績などが書かれた石碑が収められている。広場の左右には大きな石塔と文官、武官に象や馬などの動物の石像が立っている。

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