古都京都の文化財(日本) 銀閣(東山)

廊下を先に進み「東求堂(とうぐどう)」に入る。元々は12の建物があったが、1550年に三好長慶と15代将軍足利義昭との戦いの影響で銀閣と東求堂を残して焼失した。

外から見た東求堂

義政の持仏堂として1486年に造られたという。義政の等身大の木造座像が安置されている。天井は書院造で使われる折り上げ小組格天井というそうで、木を組んである。

奥の書院に行く。「同仁斎」と名前がついていた。初期の書院造で、畳4畳半の広さ。今の家屋に4畳半の部屋が普通にあるが、半端な「半」ができたのは、この義政の書院が原形なのだという。

義政の愛用した品も残っており「書院飾り」として、墨、すずり、筆、巻物、印材などが、決まった置き方をされている。段が互い違いの「違棚」には茶道具が置かれていた。

離れのような「弄清亭(ろうせいてい)」は香を楽しんだところという。襖絵はそれまで見たのとは違って、昭和に活躍した日本画家奥田元宋(1912~2003年)の作品。四季を表す桜やもみじが色鮮やかに描かれていた。

プリンのような向月台の作り方

小1時間だっただろうか、拝観を終えて外に出た。さあ、庭を見よう。修学旅行で来たときに一番印象に残っているのは、白砂に線が描かれた庭とプリンのようなもの。

「銀沙灘(ぎんしゃだん)」というのが白砂の庭、プリンのような形のものは砂を固めてつくった「向月台」という。

先ほどの特別拝観の時に庭について教えてくれた。「銀沙灘は中国の西湖をまねたものです」という。走っている筋は水面の波ということか。使っている砂は江戸時代のものだという。白砂には、反射で向かいにある方丈など建物に明かりを入れる役目もあったそうだ。

向月台は、富士山をイメージしたとか、上に座って月を見たといわれているそうだ。「砂をたたいて固めるので、5,6人乗っても壊れない。雨も大丈夫」というから、見た目より頑丈だ。土をたたいて固めて作る大相撲の土俵と似ていると思ったが、丸みをつけるのはかなりの技術なのだろう。

1976年に撮った写真があった。同じような位置から撮ってみたが、向月台の形が少し違うような気がするが、銀沙灘の波の形は変わっていない。

銀閣と向月台 (1976年)

銀閣と向月台(2019年)

木、水、石、砂…自然を表す造形

その先には錦鏡池(きんきょうち)という大きな池に島が浮かぶ庭園。この禅宗様式の庭園、夢想国師がつくった西芳寺(苔寺)の庭園をならってつくられた。池には7つの石橋と4つの浮石がある。「四方正面の庭」と言われ、どこから見ても素晴らしい庭ということらしい。

時計回りに、庭園を歩く。「洗月泉」という、小さな滝がある。これで池に水を引き込んでいる。

洗月泉から少し上ったところに展望所があるのでぜひ立ち寄った方がいい。銀閣や東求堂はじめ、銀閣寺全体が一望できる。ちょうど紅葉に入った時期だったので、もみじの赤がきれいだった。

出口に向かう前に、銀閣を「裏」から見られる。入り口側から見たときよりも近いかもしれない。日の光が当たっていたので、くっきりとしている。屋根の反り、2階の板壁、1階の白壁や障子などを見られた。

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