富岡製糸場と絹産業遺産群(日本)

寄宿舎

1893年(明26)に三井に払い下げられ、原合名会社を経て、1938年(昭13)に片倉工業に移る。地元では工場を「カタクラさん」と呼んで親しまれていたという。
1987年(昭62)に操業を停止したが、片倉工業では保存に尽力し、そのおかげで当時の建物や機械なども残り、世界遺産に登録につながった。

蚕の卵が海外でバカ売れ

世界遺産に登録されたのは4つの建物群。富岡製糸場のほかは、2つの養蚕に関わる建物と、卵の貯蔵施設。せっかく車で来たので、建物2つは見て回ることにした。まずは埼玉県伊勢崎市にある「田島弥平旧宅」に行った。


利根川の堤防にある駐車場に止め、境島小学校にある田島弥平旧宅案内所にまず寄った。解説員が丁寧に解説してくれる。


田島弥平は幕末から明治にかけて、それまでは屋外で自然に任せて育てていた蚕を、屋内で温度や湿度を管理することで生育を伸ばす「清涼育」という飼育法を全国の養蚕農家に広めた。


自宅の建物を飼育に適する環境になるように改良を重ねた。主屋兼蚕室は1階が住居、2階が蚕室で、屋根の上に「やぐら」と呼ばれる換気口に当たる小屋根(越屋根)をつけて空気を循環させて、蚕に最適な環境をつくりだした。田島弥平は技術として多くの著書も残している。


養蚕技術の向上で、優秀な蚕種(さんしゅ=蚕の卵)もとれるようになった。田島弥平はこの蚕種を貿易品にした。
1879年(明12)に米国からフランス、イタリアに直貿易に行った時に「1匹の蚕は卵を500~700個ぐらい産むのですが、今のA4ほどの和紙に2万個を産ませて、それを5万枚持っていったそうです。1枚の和紙は最高値で5円以上したこともあったそうです」(解説員)。
当時の5円の価値はピンとこないが、1885年(明18)に1円銀貨が発行されており、比較対象によって違うが、今の価値でだいたい2万円ぐらいという。5円だと10万円、5万枚では5000万円。この価値もピンとこないが、蚕の卵は大きな利益をもたらしたことが確かだろう。

旧宅に現在も子孫が住んでいるため、ここで話を聞いて建物の見学は最小限に抑える。1863年(文久3)に建てられた主屋は現存しているが、蚕室専用の建物だった「香月楼」「新蚕室」は移築、解体されて基壇だけが残っている。個人宅なので、あまりズカズカ踏み込まないように気をつけよう。
主屋は越屋根がついた長い建物。かつては主屋の隣にあった新蚕室につながる2階の廊下は途中まで残っていた。道路を挟んだ畑には、さまざまな種類の桑が植えられていた。

温度管理で繭の生産量を上げる

群馬県藤岡市にある「高山社跡」も養蚕技術に関わっている。こちらは創始者の高山長五郎が試行錯誤の末に「清温育」という養蚕技術を編み出した。
高山社の前身の高山組ができたのが1873年(明6)で富岡製糸所の操業開始の直後。蚕室では「暑い時は部屋を開放して温度を下げ、寒い時は火力で温度を上げる」という管理方法で収繭量を増やし、品質を向上させたという。


田島弥平の「清涼育」とは逆のように思うが、温度管理を発展させて成功したということらしい。高山社となってからも研究や教育を行い、全国に指導員を派遣して広めたという。


今の母屋は1891年(明24)に建てられたもの。養蚕技術を学ぶ分教場だった。ここでも解説員が丁寧に説明してくれるので、お願いしよう。主屋に入って驚くのは、1階の天井がスカスカで、すのこ状になっている。1階には囲炉裏がある。

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